それから1年後の雨の午後、菊はぼんやりと2階の自室の窓から雨に濡れる遊郭の街を眺めていた。
置屋は先週から天地がひっくり返る大騒ぎだった。
菊の美貌と純粋さに惚れた江戸一番の豪商の若旦那が、菊を身請けしたいと申し出たのだ。
それは遊郭始まって以来の女装遊女の身請け話だった、その上身請け先の経済力も桁違いだった。
いくらでも出すという若旦那の言葉に、置屋の主人は目の色を変えているのだ。
しかし、菊がぼんやりしているのは、それが原因ではなかった。
最近、健太と会えないのだ。
丁稚奉公の下積みから勉強の末、勤勉さを買われ置屋の番頭にまで昇格した健太。
住まいは置屋を離れ、遊郭にほど近い長屋の一室に越していた。
身の回りの世話も今は違う丁稚奉公の下積みがやっている。
菊は窓枠の縁に置いたカエルのおもちゃのお尻を小さく押した。
でもカエルは跳び上がらない、竹のバネが壊れているからだ。
竹製のバネは今まで何度も壊れた、でもそのたびに健太が直してくれた。
菊がもう一度カエルのお尻を押そうとした時だった。
視界の向こう、通りの向かいの置屋の軒先に駆け込み雨宿りをする男女。
そしてふたりは腕を組んで並び、激しい雨音の中でお互い耳打ちしながら親しそうに会話をしている。
遊郭の中で、男女が公衆の前で親しげにするのは珍しいことではない。
しかし菊は目を見開き、固まったままその光景を見ていた。
男性が健太だったからだ。
5/20ページ
スキ