1章 「目黒の桜」

 食堂へ向かうと、手前の喫煙スペースには二重三重の隊士の輪が出来ていた。
 この辺の大廊下は屯所のちょっとした目抜き通りのようなもので、食堂の斜め向いには厠があり、そこに挟まれる形で縦長の灰皿が3台設置され、両側の壁にはスナック菓子やジュース、いかがわしい本の自販機がずらりと並び、その奥には日中だけの営業だが大体の日用品がそろう売店があった。
 満腹になったら出すものを出し、喉を潤していかがわしい本を買う、人間の欲望が流れ作業で解消できる屯所のメインストリートだ。
「混んでる?」
 山崎は、灰皿の前でたむろい電子タバコを吸っていた顔見知りの隊士に声を掛けた。
 豊かさを望む世情はついに健康志向を生み出し、最近江戸では意図しない煙草の副流煙が社会問題になった。
 それを受け、幕府は数ヶ月前に公共施設及び公的施設での喫煙禁止条例を号令し、当然真選組屯所も全面禁煙となるはずだった。
 しかし、度を超えた愛煙家である副長により、(電子タバコはタバコにあらず、これに異を唱えるもの士道不覚悟で切腹)という、煙草を吸わない山崎からするとどの辺が「士道」で何が「不覚悟」なのか全く不明な法度事項が追加され、喫煙の定義が謎の屁理屈で強引に捻じ曲げられた真選組は、電子タバコはセーフという共通認識のもと、副長以外の喫煙者全員が電子タバコへ移行した。
 おかげで灰皿の撤去は免れたのだが、ここでも妙な法則が働き、隊歴が長いほど灰皿近くを陣取り、短いほど離れた場所で吸った。
「いや、まだ十番隊の連中が食ってるんで…」
 灰皿近くでタバコを咥えながら、えも言われぬ表情で食堂の方を見つめる彼は隊歴3年、真選組設立後に間もなく入隊した隊士だった。
 真選組には浪士組という前身組織が2年ほど存在しており、隊歴はそれと地続きに認識されていて、真選組設立当初の入隊は立派に中堅隊士の立ち位置であった。
 山崎は浪士組立ち上げからの古参であるが、真選組の歴史にはもっと以前、浪士組すら存在しなかった時代がある。
「あっ、ちょっ、ザキさん!」
 咥えていたタバコを素早く下ろした中堅隊士が、山崎の肩を軽く叩いた。
 何事かと振り返った山崎は、思わずその場で直立不動になった。
「お、お、お、お疲れ様です!!」
 そこには、三番隊隊長の斎藤終が立っていた。
 約五年前、江戸で一旗揚げようと近藤、土方、現在一番隊隊長の沖田や十番隊隊長の原田ら、十数人の若者が己の剣術だけを頼りに武州から上京した。
 真選組が影も形もなかったその頃、大義を抱き田舎を後にした若者達の中に斎藤終もいた。
「あっ、すいません!」
 状況を察した山崎が横歩きで場所を開けると、斎藤はそのまま前進して、厠の扉を開け中に入った。
 次の瞬間あたりの雰囲気が和らぎ、皆が一斉にタバコを咥えだした。
 山崎は立場は違えど5年近い付き合いの中で斎藤の声を一度も聞いたことがなく、もしかしからそういう持病があるのかと思ったが、沖田いわく、武州時代から極度の無口だそうだ。
 そこに三番隊の内部粛清という特性も相まって、隊士の間では不気味さと恐怖が交差する呪物のような存在だった。
「そういえば幹部宿舎の厠って、ヒーター付きのウォシュレットだろ。いいよなぁ〜、俺だったらこんな汚ったねぇ厠なんて使わねぇで、そっち使うわ」
 山崎は、相変わらず灰皿のまわりでたむろう隊士達の会話に、心の中で「たしかにな」と相づちを打ちながら食堂の中へ入った。
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