2章 「宇宙の海の物語」
「Je vous aime profondément.
Je peux tout endurer,
et je vous suivrai où que vous alliez.」
青年はその手紙を胸元に置くと、両手を左右へ投げ出し小さく息を吐いた。
夜8時を告げる教会の鐘が鳴り響く中、パリの街を北と南に分断するように流れるセーヌ川は、世界一の大都市を支える大動脈の一日の役割を終え、今は川のほとりの街路樹の並木道に並ぶガス燈の柔らかい灯りの下で、眠るように穏やかな流れをたたえていた。
その川の流れとガス燈が照らす歩道の間、数段下がった岸壁は船からの荷揚げ場であり、昼間荷揚げされた荷物がところ狭しと並べられていた。
その一角にある大量の干し草の上に青年は寝転がり、星々が鮮やかに広がる夜空を眺めていた。
この辺りは労働階級やならず者が住まう、パリの中でも最悪の治安地区で、官費で留学している身分がけして足を踏み入れるような場所ではなかった。
それにも関わらず、身ぐるみを剥がされることもなく、彼がこの辺で自由にしていられる理由は意外なところにあった。
ただ、人の話を聞いただけだ。
最初はとても不思議だったのだが、この国の人は相手の話を聞かない。正確に言うと、人の話を最後まで聞かない。
入国してから1か月が経った頃だった。
異国に来た開放感から興味本位で夜な夜な街をうろつき、迷い込んだ大通りで目に入った酒場のドアを開けたのがきっかけだった。
突然入ってきた見慣れぬ東洋人に、酒場は一瞬で静まりかえった。
すぐに場違いに気づいたが、留学前まで通っていた剣術道場で培った不動心がむくむくと肚の辺りで起動し、ホールのテーブル席を抜けて奥のカウンターに進み座った。
カウンターの中の店員は青年の前まで来ると何か言ったが、あまりの早口に青年の語学力では聞き取れなかった。
やがて背後のホールの方から、彼でもわかるような侮蔑や差別の言葉が聞こえ始め、それは徐々に大きくなっていった。
流石に身の危険を感じ、撤退に転じようと画策を始めた時だった。
「Est-ce que vous parlez français ?
(フランス語は話せるか)」
青年は、横に立ったその声の主を見上げ答えた。
「Un petit peu.(少し)」
そこには、厚手の綿を藍色に染め抜いたビヨードを着用し、薄汚れてたベルベットのズボンと革の編み上げブーツ、そして重量物を担ぐ彼ら荷揚げ労働者の腰の保護役でありトレードマークでもある白いサンチュールを腰に巻いた、ひときわ大きな体格の男性が立っていた。
男性は青年の隣に座ると、カウンターの中の店員に注文を告げた。
まもなく傷だらけの分厚いグラス入ったぶどう酒が目の前に出されると、「Bois (飲め)」という男性の言葉に促され、青年はグラスに手を伸ばした。
そしてグラスに口を付け少量を含んだ瞬間、青年は反射的にそれを吐き出しそうになった。
とても飲めたものじゃなかった。しかし、日本男児の誇りと名家の跡取りという意地がかろうじてそれを食い止めた。
「Tu es un étudiant du Japon ?
(お前、日本の学生か?)」
一口目の衝撃の余韻と二口目への対処の思案に明け暮れていた青年は、不意の問いにとっさにお大きく頷いた。
衣服を見れば丸わかりだった。幕府からは留学中の着物以外の着用を固く禁じられていた。
それでも興味本位で、下宿先のアパルトマンの中庭に干してあった誰かの上着とズボンをこっそり着用してみた事があったが、肚に力が入らないというか、帯紐で体に固定する着物と違い全身の布が肌に密着している割に腹のあたりがゆるく、どうにも違和感を感じたのだ。
「Pourquoi es-tu ici ? Ce n'est pas un endroit pour toi, ce n'est pas sûr.
(なぜここにいる?ここは君が来るような場所じゃない。危険だぞ。)」
すでに空のグラスを持て余すように握り、男性はゆっくり静かにそう言った。
「Parce que ça a l'air intéressant.
(面白そうだから。)」
十七歳のその率直な返答に、男性は「ハハッ」と声を出して笑うと、カウンターに店員にさらに一杯のぶどう酒を注文した。
そして出されたぶどう酒を持ち立ち上がるとくるりと後を向き、グラスを頭上に掲げて高らかに言った。
「Hé, les gars ! À la santé de notre petit invité venu du bout de l'Orient !
(野郎ども!東の果てから来た小さな客人に乾杯だ!)」
男性はここら一帯の荷揚げ作業員をまとめ上げているボスだった。
そしてその声に促され、ホールは「Tchin-tchin !(乾杯!)」の大合唱が始まった。
まるで、「えいっ!えいっ!おうっー!」と勝どきでも始まったかのような大騒ぎに目を丸くした青年の周りには、ガタが外れたように人が集まり、ある者は隣に座り、ある者は肩に手をまわし、「お前らは犬やネズミを食うのか?」、「日本人は自分の腹を切るってのは本当か?」という問いから、「日本女性の下の毛は何色だ?」という青年にはまだ未知の領域である問いまで、その日は世界最大の大国が極東の小さな島国へ抱く疑問や偏見が延々と繰り返えされた。
それからだった。最初はあまりの早口や訛りの強さに言葉が聞き取れず、仕方なく頷いていただけっだったが、それが功を奏した。
人の話を最後まで聞くということは日本人の青年としては、太陽が東から昇るぐらい当たり前のことだったが、この国では事情が違うようだった。
人の話には関心が薄いが自分の主張は強く発したいフランス人の荒くれ者たちに、彼の姿勢は広く受け入れられ、青年は暇さえあればこの界隈に足繁く通った。
酒場に行けば話を聞いて頷いているだけで豚肉のパテを塗ったパンやポトフといったタダ飯にありつけたし、何より、語学力が断然上がったのだ。
間口は狭いが懐に入ってしまえば底なしに広い、彼はそんなフランス人の人となりと大国に漂う生の空気を、その先3年間でたくさん学ぶこととなった。
そして4年目の今、あと半年でついに日本へ帰国する。
「Petit Samouraï!」
星々の大パノラマから目線を外し声のする方へ顔を向けると、頭上の街路樹の間から顔を出しこちらに手を振る人物がいた。
彼は、ここら一帯で呼ばれている青年の「Petit Samouraï(小さな侍)」という愛称を付けた張本人だった。
土産として留学先に配るために大量に持ち込んだ浮世絵の一枚を渡したところ、そこに描かれたいた宮本武蔵を大変気に入り、日本男性はこの絵のように全員侍に違いないという彼の独自解釈が発展したことを知ると、もしそうなら一刀でも難儀なのに二刀流の剣術修練なんて勘弁してくれと、青年は心の中でクスリと笑った。
「Mange, Samouraï!(食え、侍!)」
彼はそう言うと、青年に小さな林檎を落とし、手を降ると再び街路樹の間へと消えた。
頭上から降ってきた、手のひらですっぽりと覆える小ぶりな林檎を片手で受け止めた青年は、その落とし主が去ったことを確認すると、そのまま口元へ運びそれを噛じった。
「Petit Samouraï(小さな侍)」と呼ばれた彼もこの地で二度目の成長期を迎え、今ではこの辺の荷揚げ労働者たちと遜色ない体つきや背丈となり、酒場初日に受けた、「日本人女性に下の毛は何色だ?」という問いには、図らずもフランス人女性でその領域を経験する事になった。
それは一時の気の迷い、ちょっとした火遊びのつもりだった。それに、日本に帰れば許嫁がいる。
でも、愛してしまった。
口づけを交わす度、肌を重ねる度、彼女を好きになっていった。
青年は食べ終えた林檎の芯を足元の川の方へ投げると、胸元の手紙を着物の袂(たもと)へねじ込んだ。
こんな手紙を彼女の父親でもある下宿先の主人に見つかったら、殴られるだけじゃ済まないだろう。
7月の夜空には、鮮やかにきらめく天の川が流れていいた。
暦によれば、あと数時間で織姫と彦星はまた一年間離れ離れになる。
その時ふたりは、どんな言葉を交わすのだろうか。どんな約束をするのだろうか。
彼女がどんなに望んでも連れて帰ることなどできない。そんな事をすれば大騒ぎになる。
彼はまた、小さく息を吐いた。
※次回2章二話目は、2/27夕方以降投稿。
Je peux tout endurer,
et je vous suivrai où que vous alliez.」
青年はその手紙を胸元に置くと、両手を左右へ投げ出し小さく息を吐いた。
夜8時を告げる教会の鐘が鳴り響く中、パリの街を北と南に分断するように流れるセーヌ川は、世界一の大都市を支える大動脈の一日の役割を終え、今は川のほとりの街路樹の並木道に並ぶガス燈の柔らかい灯りの下で、眠るように穏やかな流れをたたえていた。
その川の流れとガス燈が照らす歩道の間、数段下がった岸壁は船からの荷揚げ場であり、昼間荷揚げされた荷物がところ狭しと並べられていた。
その一角にある大量の干し草の上に青年は寝転がり、星々が鮮やかに広がる夜空を眺めていた。
この辺りは労働階級やならず者が住まう、パリの中でも最悪の治安地区で、官費で留学している身分がけして足を踏み入れるような場所ではなかった。
それにも関わらず、身ぐるみを剥がされることもなく、彼がこの辺で自由にしていられる理由は意外なところにあった。
ただ、人の話を聞いただけだ。
最初はとても不思議だったのだが、この国の人は相手の話を聞かない。正確に言うと、人の話を最後まで聞かない。
入国してから1か月が経った頃だった。
異国に来た開放感から興味本位で夜な夜な街をうろつき、迷い込んだ大通りで目に入った酒場のドアを開けたのがきっかけだった。
突然入ってきた見慣れぬ東洋人に、酒場は一瞬で静まりかえった。
すぐに場違いに気づいたが、留学前まで通っていた剣術道場で培った不動心がむくむくと肚の辺りで起動し、ホールのテーブル席を抜けて奥のカウンターに進み座った。
カウンターの中の店員は青年の前まで来ると何か言ったが、あまりの早口に青年の語学力では聞き取れなかった。
やがて背後のホールの方から、彼でもわかるような侮蔑や差別の言葉が聞こえ始め、それは徐々に大きくなっていった。
流石に身の危険を感じ、撤退に転じようと画策を始めた時だった。
「Est-ce que vous parlez français ?
(フランス語は話せるか)」
青年は、横に立ったその声の主を見上げ答えた。
「Un petit peu.(少し)」
そこには、厚手の綿を藍色に染め抜いたビヨードを着用し、薄汚れてたベルベットのズボンと革の編み上げブーツ、そして重量物を担ぐ彼ら荷揚げ労働者の腰の保護役でありトレードマークでもある白いサンチュールを腰に巻いた、ひときわ大きな体格の男性が立っていた。
男性は青年の隣に座ると、カウンターの中の店員に注文を告げた。
まもなく傷だらけの分厚いグラス入ったぶどう酒が目の前に出されると、「Bois (飲め)」という男性の言葉に促され、青年はグラスに手を伸ばした。
そしてグラスに口を付け少量を含んだ瞬間、青年は反射的にそれを吐き出しそうになった。
とても飲めたものじゃなかった。しかし、日本男児の誇りと名家の跡取りという意地がかろうじてそれを食い止めた。
「Tu es un étudiant du Japon ?
(お前、日本の学生か?)」
一口目の衝撃の余韻と二口目への対処の思案に明け暮れていた青年は、不意の問いにとっさにお大きく頷いた。
衣服を見れば丸わかりだった。幕府からは留学中の着物以外の着用を固く禁じられていた。
それでも興味本位で、下宿先のアパルトマンの中庭に干してあった誰かの上着とズボンをこっそり着用してみた事があったが、肚に力が入らないというか、帯紐で体に固定する着物と違い全身の布が肌に密着している割に腹のあたりがゆるく、どうにも違和感を感じたのだ。
「Pourquoi es-tu ici ? Ce n'est pas un endroit pour toi, ce n'est pas sûr.
(なぜここにいる?ここは君が来るような場所じゃない。危険だぞ。)」
すでに空のグラスを持て余すように握り、男性はゆっくり静かにそう言った。
「Parce que ça a l'air intéressant.
(面白そうだから。)」
十七歳のその率直な返答に、男性は「ハハッ」と声を出して笑うと、カウンターに店員にさらに一杯のぶどう酒を注文した。
そして出されたぶどう酒を持ち立ち上がるとくるりと後を向き、グラスを頭上に掲げて高らかに言った。
「Hé, les gars ! À la santé de notre petit invité venu du bout de l'Orient !
(野郎ども!東の果てから来た小さな客人に乾杯だ!)」
男性はここら一帯の荷揚げ作業員をまとめ上げているボスだった。
そしてその声に促され、ホールは「Tchin-tchin !(乾杯!)」の大合唱が始まった。
まるで、「えいっ!えいっ!おうっー!」と勝どきでも始まったかのような大騒ぎに目を丸くした青年の周りには、ガタが外れたように人が集まり、ある者は隣に座り、ある者は肩に手をまわし、「お前らは犬やネズミを食うのか?」、「日本人は自分の腹を切るってのは本当か?」という問いから、「日本女性の下の毛は何色だ?」という青年にはまだ未知の領域である問いまで、その日は世界最大の大国が極東の小さな島国へ抱く疑問や偏見が延々と繰り返えされた。
それからだった。最初はあまりの早口や訛りの強さに言葉が聞き取れず、仕方なく頷いていただけっだったが、それが功を奏した。
人の話を最後まで聞くということは日本人の青年としては、太陽が東から昇るぐらい当たり前のことだったが、この国では事情が違うようだった。
人の話には関心が薄いが自分の主張は強く発したいフランス人の荒くれ者たちに、彼の姿勢は広く受け入れられ、青年は暇さえあればこの界隈に足繁く通った。
酒場に行けば話を聞いて頷いているだけで豚肉のパテを塗ったパンやポトフといったタダ飯にありつけたし、何より、語学力が断然上がったのだ。
間口は狭いが懐に入ってしまえば底なしに広い、彼はそんなフランス人の人となりと大国に漂う生の空気を、その先3年間でたくさん学ぶこととなった。
そして4年目の今、あと半年でついに日本へ帰国する。
「Petit Samouraï!」
星々の大パノラマから目線を外し声のする方へ顔を向けると、頭上の街路樹の間から顔を出しこちらに手を振る人物がいた。
彼は、ここら一帯で呼ばれている青年の「Petit Samouraï(小さな侍)」という愛称を付けた張本人だった。
土産として留学先に配るために大量に持ち込んだ浮世絵の一枚を渡したところ、そこに描かれたいた宮本武蔵を大変気に入り、日本男性はこの絵のように全員侍に違いないという彼の独自解釈が発展したことを知ると、もしそうなら一刀でも難儀なのに二刀流の剣術修練なんて勘弁してくれと、青年は心の中でクスリと笑った。
「Mange, Samouraï!(食え、侍!)」
彼はそう言うと、青年に小さな林檎を落とし、手を降ると再び街路樹の間へと消えた。
頭上から降ってきた、手のひらですっぽりと覆える小ぶりな林檎を片手で受け止めた青年は、その落とし主が去ったことを確認すると、そのまま口元へ運びそれを噛じった。
「Petit Samouraï(小さな侍)」と呼ばれた彼もこの地で二度目の成長期を迎え、今ではこの辺の荷揚げ労働者たちと遜色ない体つきや背丈となり、酒場初日に受けた、「日本人女性に下の毛は何色だ?」という問いには、図らずもフランス人女性でその領域を経験する事になった。
それは一時の気の迷い、ちょっとした火遊びのつもりだった。それに、日本に帰れば許嫁がいる。
でも、愛してしまった。
口づけを交わす度、肌を重ねる度、彼女を好きになっていった。
青年は食べ終えた林檎の芯を足元の川の方へ投げると、胸元の手紙を着物の袂(たもと)へねじ込んだ。
こんな手紙を彼女の父親でもある下宿先の主人に見つかったら、殴られるだけじゃ済まないだろう。
7月の夜空には、鮮やかにきらめく天の川が流れていいた。
暦によれば、あと数時間で織姫と彦星はまた一年間離れ離れになる。
その時ふたりは、どんな言葉を交わすのだろうか。どんな約束をするのだろうか。
彼女がどんなに望んでも連れて帰ることなどできない。そんな事をすれば大騒ぎになる。
彼はまた、小さく息を吐いた。
※次回2章二話目は、2/27夕方以降投稿。
