2章 「宇宙の海の物語」
いつの間にか、教会の鐘の音は夜の10時を告げていた。
夜空にきらめく星屑の大河を眺めながら、もうかれこれ4時間はここでこうしている。
出口の見えない気持ちは鉛のように重くて、心が体が動かない。
巨大都市の大動脈でありながらそれ同等の生活排水も大量に流れ込むセーヌ川は、川底に溜まった汚泥が発酵し、強烈な刺激臭が鼻腔の奥を漂うのが常だが、最初はあんなに嫌悪してたはずなのに、恐ろしいことにこの四年ですっかり慣れてしまった。
そんないつもの悪臭は風の中に折りたたまれ、7月の生ぬるい夜風として青年の頬をかすめていた。
「シュッシュッ、シュッ、シュッ、ヒィィィー!」
またお前か、焚き過ぎなんだよ。そのうちシリンダー吹っ飛ぶぞ。
その音の主は、対岸の荷揚げ組合が夜間の岸壁巡回に走らせている小型蒸気船だった。
青年が毎週末開催する干し草会場の天体鑑賞に、決まって現れ空気をぶち壊す迷惑な輩なのだ。
そんなに早く仕事を終わらせたいのか、ただの技術不足か、いつも限界に達した蒸気圧を逃がす安全弁の悲鳴を鳴り響かせていた。
どんなに石炭をくべようが、作れる圧力の量は決まっているんだ。その大きさのシリンダーの中にいる限り、蒸気はどんなに増えてもどこにも行けない。
そんな単純な事を学ぶために、俺は四年もフランスに居る。
青年は腕を掲げ、手のひらを空にかざした。
たしかにそれだけを学びに来たわけじゃないが、でも物事には必ず意味というものがある。
それが何なのかということより前に、なぜそれが存在するか、それにどんな意味があるのか、なぜそれがそうであるのか。
何かを学ぶなら、まずそこからだ。
子供の頃から不思議だった、なぜ自分は生まれたのか、なぜ存在するのか、生きる意味とは何なのか。
幼い自分が無邪気にそれを父親に問うと、「お前は跡を取ることだけを考えろ」とぶん殴られて、3日間納屋に入れられた。
その頃はその仕打ちの意味がわからなかったが、十五年が経った今なら少しわかる。
そんなこと聞かれても、わからないからだ。
正確な答えなど、誰も持ち合わせていないからだ。
青年は遥かかなたに流れる天の川を、流れに沿って指でなぞった。
その点、先月オックスフォード大学の公開講義で聴いた、ダーウィン教授の「種の起源と進化論」は興味深かった。
人の誕生は神の仕業などではなく、「偶然の変化」と「生存競争」がもたらしたという思想だ。
その思想は、今やフランスを飛び越え世界中で大論争が起きているが、青年は知ったことでは無かった。
そんなことは十分に有り得るじゃないかと思うからだ。
青年は、パリ中心部に位置する自身の通う、名門エコール・セントラル工科大学のキャンパスを度々抜け出し、他の大学へ講義を聴きに行った。
最初は驚いたが、フランスの大学は他校の生徒が講義を聞くことに大歓迎なのだ。
いい学びは共有しようという思想からのようだが、家柄や血筋を重んじて他を排除する日本の学問所との大きな違いに、大国の発展に関する渇望とその行動力に脱帽した。
彼は星空に掲げていた腕を干し草の上に降ろし、静かに星屑の大海を見つめた。
本当に好きなのは天文学だ。
この空の向こうには漆黒の闇が広がっているのだという。
そして今自分が住んでいるこの大地は、その闇に浮かんでいて、太陽も月もそこに浮かぶ大地に過ぎないというのだ。
青年が通っていた学問所の講師は講義の合間に嘲笑ぎみに語ったが、ここフランスでは真剣に議論されているし、実際に最新の望遠鏡で観測もされている。
先日訪れたパリ天文台で行われたルヴェリエ台長の公開講義では、海王星発見の過程を解説すると共に、最後に他の惑星に生命体が存在するか否かという議題が盛り込まれていた。
青年は居てもおかしくないと思っていた。いつか、異星人に会う日が来るのかもしれない。
むしろ、人はなぜ自分がわかることだけが全てだと思うのか、その方が青年は不思議だった。
この世界はどんな仕組みで成り立っているのか、機械工学より家業のからくり時計より、そういう事を知りたかった。
そう、本当はそういう事が知りたい。
心の中に一滴の黒い小さなシミが現れた。
帰れば、家業を継がざるを得ない。
そしてこの自由な暮らしは終わりだ。帰れば父親の元で修行を積み、ゆくゆくは将軍お抱えの時計職人として、幕府に一生ぶら下がって生きていくしかない。
なんで世界はこんなに広いのに、こんなにたくさんのもので溢れているのに、なんで自分は狭い世界に閉じこもらなければならないんだろう。
なんで世界は、こんなに広くて狭いんだろう。
青年は再度、夜空に手を伸ばした。
例えばだ。例えば、逃げるとしたら。
彼女を連れてどこか遠く、どこか遠くでふたりで生きていけたら。
家柄なんか要らない、贅沢も必要ない、天文学は空と上質な知識さえあればどこででも学べる。荷揚げ労働だって悪くない。
愛する人とふたりで、ただ暮らせていけたら。
空高く掲げられたその手は、次の瞬間グッと強く握られた。
そんな事、出来るはずがない。将軍様が特別に目を掛けてくださっただけの武家でもない時計職人の倅が、莫大な官費を掛け留学した上に逃亡。
その先は将軍様の顔に泥を塗ったとしてお家取り潰し、両親どころか親族一同殺される。
青年は星屑の海の中で、握った手の人差し指と親指を伸ばした。そして、天の川の対岸と対岸をその指でつまむように空に重ねた。
(例えばだ、、、例えば、、、。)
青年はそう心の中でつぶやくと、その二本の指先を少しずつ近づけた。
(こんなふうに、、、距離が縮まれば、、、)
フランスも日本も、時間も距離も、文化の違いもしがらみも。
(、、、こんなふうに、、、距離を折りたたんで縮まれば、、、)
そう、そんなふうに全部折りたたんで縮めたら、どんなに遠くてもすぐ会える。
(、、、?、、、折りたたむって何を?、、、、、、)
鼓動が加速する。
(、、、折りたたむ、、、たたむ、、、たたむもの、、、それは、、、それは、、、)
頭の中で何かが弾け、そして崩れた。
(、、、それは、、、それは、、、)
「世界そのもの。」
天空を見つめながら、青年はゆっくり体を起こした。
分からないんじゃない、見えないんだ。
この世界は、、、この世界には、、、外がある!!
【WARNING: SINGULARITY DETECTED】
(警告:特異点を検知しました)
【WARNING: SINGULARITY DETECTED】
(警告:特異点を検知しました)
それは、6億回の自滅を繰り返したこの宇宙に、初めて放たれた警告アラートだった。
※次回2章#16は、3/2から3/5夕方以降投稿に変更になりました!!
夜空にきらめく星屑の大河を眺めながら、もうかれこれ4時間はここでこうしている。
出口の見えない気持ちは鉛のように重くて、心が体が動かない。
巨大都市の大動脈でありながらそれ同等の生活排水も大量に流れ込むセーヌ川は、川底に溜まった汚泥が発酵し、強烈な刺激臭が鼻腔の奥を漂うのが常だが、最初はあんなに嫌悪してたはずなのに、恐ろしいことにこの四年ですっかり慣れてしまった。
そんないつもの悪臭は風の中に折りたたまれ、7月の生ぬるい夜風として青年の頬をかすめていた。
「シュッシュッ、シュッ、シュッ、ヒィィィー!」
またお前か、焚き過ぎなんだよ。そのうちシリンダー吹っ飛ぶぞ。
その音の主は、対岸の荷揚げ組合が夜間の岸壁巡回に走らせている小型蒸気船だった。
青年が毎週末開催する干し草会場の天体鑑賞に、決まって現れ空気をぶち壊す迷惑な輩なのだ。
そんなに早く仕事を終わらせたいのか、ただの技術不足か、いつも限界に達した蒸気圧を逃がす安全弁の悲鳴を鳴り響かせていた。
どんなに石炭をくべようが、作れる圧力の量は決まっているんだ。その大きさのシリンダーの中にいる限り、蒸気はどんなに増えてもどこにも行けない。
そんな単純な事を学ぶために、俺は四年もフランスに居る。
青年は腕を掲げ、手のひらを空にかざした。
たしかにそれだけを学びに来たわけじゃないが、でも物事には必ず意味というものがある。
それが何なのかということより前に、なぜそれが存在するか、それにどんな意味があるのか、なぜそれがそうであるのか。
何かを学ぶなら、まずそこからだ。
子供の頃から不思議だった、なぜ自分は生まれたのか、なぜ存在するのか、生きる意味とは何なのか。
幼い自分が無邪気にそれを父親に問うと、「お前は跡を取ることだけを考えろ」とぶん殴られて、3日間納屋に入れられた。
その頃はその仕打ちの意味がわからなかったが、十五年が経った今なら少しわかる。
そんなこと聞かれても、わからないからだ。
正確な答えなど、誰も持ち合わせていないからだ。
青年は遥かかなたに流れる天の川を、流れに沿って指でなぞった。
その点、先月オックスフォード大学の公開講義で聴いた、ダーウィン教授の「種の起源と進化論」は興味深かった。
人の誕生は神の仕業などではなく、「偶然の変化」と「生存競争」がもたらしたという思想だ。
その思想は、今やフランスを飛び越え世界中で大論争が起きているが、青年は知ったことでは無かった。
そんなことは十分に有り得るじゃないかと思うからだ。
青年は、パリ中心部に位置する自身の通う、名門エコール・セントラル工科大学のキャンパスを度々抜け出し、他の大学へ講義を聴きに行った。
最初は驚いたが、フランスの大学は他校の生徒が講義を聞くことに大歓迎なのだ。
いい学びは共有しようという思想からのようだが、家柄や血筋を重んじて他を排除する日本の学問所との大きな違いに、大国の発展に関する渇望とその行動力に脱帽した。
彼は星空に掲げていた腕を干し草の上に降ろし、静かに星屑の大海を見つめた。
本当に好きなのは天文学だ。
この空の向こうには漆黒の闇が広がっているのだという。
そして今自分が住んでいるこの大地は、その闇に浮かんでいて、太陽も月もそこに浮かぶ大地に過ぎないというのだ。
青年が通っていた学問所の講師は講義の合間に嘲笑ぎみに語ったが、ここフランスでは真剣に議論されているし、実際に最新の望遠鏡で観測もされている。
先日訪れたパリ天文台で行われたルヴェリエ台長の公開講義では、海王星発見の過程を解説すると共に、最後に他の惑星に生命体が存在するか否かという議題が盛り込まれていた。
青年は居てもおかしくないと思っていた。いつか、異星人に会う日が来るのかもしれない。
むしろ、人はなぜ自分がわかることだけが全てだと思うのか、その方が青年は不思議だった。
この世界はどんな仕組みで成り立っているのか、機械工学より家業のからくり時計より、そういう事を知りたかった。
そう、本当はそういう事が知りたい。
心の中に一滴の黒い小さなシミが現れた。
帰れば、家業を継がざるを得ない。
そしてこの自由な暮らしは終わりだ。帰れば父親の元で修行を積み、ゆくゆくは将軍お抱えの時計職人として、幕府に一生ぶら下がって生きていくしかない。
なんで世界はこんなに広いのに、こんなにたくさんのもので溢れているのに、なんで自分は狭い世界に閉じこもらなければならないんだろう。
なんで世界は、こんなに広くて狭いんだろう。
青年は再度、夜空に手を伸ばした。
例えばだ。例えば、逃げるとしたら。
彼女を連れてどこか遠く、どこか遠くでふたりで生きていけたら。
家柄なんか要らない、贅沢も必要ない、天文学は空と上質な知識さえあればどこででも学べる。荷揚げ労働だって悪くない。
愛する人とふたりで、ただ暮らせていけたら。
空高く掲げられたその手は、次の瞬間グッと強く握られた。
そんな事、出来るはずがない。将軍様が特別に目を掛けてくださっただけの武家でもない時計職人の倅が、莫大な官費を掛け留学した上に逃亡。
その先は将軍様の顔に泥を塗ったとしてお家取り潰し、両親どころか親族一同殺される。
青年は星屑の海の中で、握った手の人差し指と親指を伸ばした。そして、天の川の対岸と対岸をその指でつまむように空に重ねた。
(例えばだ、、、例えば、、、。)
青年はそう心の中でつぶやくと、その二本の指先を少しずつ近づけた。
(こんなふうに、、、距離が縮まれば、、、)
フランスも日本も、時間も距離も、文化の違いもしがらみも。
(、、、こんなふうに、、、距離を折りたたんで縮まれば、、、)
そう、そんなふうに全部折りたたんで縮めたら、どんなに遠くてもすぐ会える。
(、、、?、、、折りたたむって何を?、、、、、、)
鼓動が加速する。
(、、、折りたたむ、、、たたむ、、、たたむもの、、、それは、、、それは、、、)
頭の中で何かが弾け、そして崩れた。
(、、、それは、、、それは、、、)
「世界そのもの。」
天空を見つめながら、青年はゆっくり体を起こした。
分からないんじゃない、見えないんだ。
この世界は、、、この世界には、、、外がある!!
【WARNING: SINGULARITY DETECTED】
(警告:特異点を検知しました)
【WARNING: SINGULARITY DETECTED】
(警告:特異点を検知しました)
それは、6億回の自滅を繰り返したこの宇宙に、初めて放たれた警告アラートだった。
※次回2章#16は、3/2から3/5夕方以降投稿に変更になりました!!
