1章 「目黒の桜」

 促されるまま、土方は松平の向かいに座った。
 普段なら、政務机に足を乗せてふんぞり返る松平の向かいに立って話をするの常だが、先導付きといいこの革張りのソファーといい、どうも今日は調子が狂う。
 「お久しぶりですねぇ、土方さん。相変わらずご活躍のようで。」
 あえて避けていた目線を斜め向かいにちらりと向けると、まるでそれを待っていたかのように、佐々木の口角が「ニッ」と横に広がった。
 「おじさんもこれから将軍とゴルフで時間ねぇからさぁ〜、早速本題に入るけんどもよぉ。」
 知ってか知らずかその空気に割って入るように、松平は長年のキャバクラ通いで鍛えた、少し潰れながらもよく通る声で饒舌に話はじめた。
 テーブルの上に置かれた小さなこげ茶色の木箱に目線を外しながら、それでもこちらに向けられた佐々木の鋭い眼光を、土方は顔の右前辺りに感じていた。
 実は佐々木とはほとんど接点がない。何かの拍子で見廻組と現場が被ったとしても、こいつはほとんど表には出てこない。
 たまに本庁の廊下ですれ違うくらいだ。
 お互い軽く会釈をするくらい、だがしかし、お互いいつも僅かに視線が合うのだ。
 その瞬間が、土方はたまらなく嫌だった。
 こいつは今の地位に、増長しているわけでも満足しているわけでもない。
 こんなに分からないやつはいない。いや、こいつの中には何も無い。それを感じる瞬間がたまらなく嫌なのだ。
 「と、いうわけだ。これ以上は言わねぇしお前も聞くなよ。」
 ひとしきり話した松平は眼の前の木箱を開けると、鈍く光る金色のライターと葉巻を取り出し、火を付けて堂々と吸い始めた。
「まぁ、頼むわトシ。あぁそれと、このことは前日までオフレコだ。一般の隊士には前日にでもちょちょっと会議して伝えなさいよ。」
 まぁ、そんな事だろうとは思った。ただひとつ疑問が残る、この命(めい)になぜ応接セットが必要だったのか。
「これでいいのか、佐々木殿。」
 しかしその答えは、ものの数秒で得られた。
「えぇ、真選組の皆さんなら野生の勘と不屈の士道とやらで、必ずや事を成して下さるでしょう。なにせ私のような柔(やわ)な生まれには、そのような才は持ち合わせていないもので。」
 こいつが出どころなのか。土方は頭の中で大きく息を吸った。
 こういう時はそう、もう手を離してしまうしかない。
 頭の中に浮かぶあれやこれや、心の中に浮かぶあれやこれや、それを一切、手放してしまうしかない。
 つまり、頭を切り替えるしかないのだ。
 忙しいと言う割には、娘にねだられ莫大なコネと根回しの末に、今回の公演は最前列が確保でたと上機嫌で話し始めた松平に、土方は「じゃあ、戻る。」と告げて席を立ち、出口へ向かった。
 そして、ドアノブに手を掛けた時だった。
「トシ、下手こくなよ。」
 それは警察庁長官からのありがたい労いの言葉か、それとも最後に手向けられた別れの花束か。 
 土方は松平の腹が読めないまま、僅かに振り向くと、「あぁ」と返事をして長官室を出た。
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