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蒼天のキセキ

 放課後、俺と飛高は病院に向かった。ここら辺では一番大きい総合病院だ。

「北病棟の六階って言ってたね」

 エレベーターに乗り込んで6と書かれたボタンを押して上がっていく。六階に着くと教えてもらった部屋番号を探して北の方角の病室に向かって歩く。

「ここみたいだね」

 部屋の扉の前には名前が書かれたプレートがあり、「天空翼」の文字があった。人生で一度も想像したことのない光景だった。

「くっ……ぅ……」

 六人部屋でプライバシーを確保するためのカーテンの前に差し掛かると、苦しげな呻き声が聞こえた。その声の主は明らかに自分達が立っているカーテンの中の人物なのに、そうでないことを祈らずにはいられなかった。

「翼……」

 痛みに耐えるように顔を歪める様子を見てひどく心が痛んだ。額に滲んだ汗とほんのり赤らんだ頬と頭に敷かれた氷枕を見ると熱も出ているのだとわかる。十数年一緒にいるのに、そんな翼を見るのは初めてかもしれない。
 あの翼が……いつも笑っていて、元気があって、皮肉なくらい悩みなんてなさそうな顔をしているあの翼が、こんな苦悶の表情を浮かべるなんて。

「ああ、蒼……よかった……」

 けれど翼は俺の顔を見るなり安心したように笑って、そう弱々しく言った。何が良かったのか俺にはさっぱりわからない。

「だいぶ痛むのか……」

「うん。でも蒼の顔見たら痛くなくなった」

 翼は能天気に笑ういつもの表情を見せたが、俺はそんなわけないだろと思わず心の中でつっこみ、ギプスと包帯で固められた白い塊を見た。クッションか何かで少しだけ高い位置に上げられているそれはとても痛々しかった。

「翼、ごめんな。俺、あんなこと……心にもないこと……言わなければ良かったって本当に後悔した」

 目には涙が滲む。昨日一晩中泣き腫らしたというのに、未だに枯れる様子を見せないそれは、我慢できずにこぼれ落ちた。翼はそんな俺を心配そうに見つめ、俺の手を握った。じんわりと高い体温が伝わってくる。動作の一つ一つが重く、怠そうだ。

「蒼、またオレと仲良くしてくれるか?」

 そんな翼の言葉は想像とは違っていた。気にも留めていないか、あっさり許してくれるか、そんな感じだと思っていたのに、翼の方から仲良くしたいと言ってくるなんて。普段ならそんなことは聞かずに、俺が嫌と言ってもすぐに付き纏ってくるくせに。

「うん。俺、翼がいないと……いや、なんでもない」

「やったー!! オレ、蒼と一緒にいられなくなったらどうしようかって思ってたんだ!!」

 翼は俺の様子に一瞬きょとんとしたが、すぐに嬉しそうに笑った。普段の翼のテンションに戻っているように見えたが、どこかやっぱりいつもの翼とは違った。翼も俺と同じようにネガティブなことを考えたのだろうか……だとしたら、やっぱり相当弱っているんだろうか。

「翼、本当にごめん」

 いつもならヘラヘラ笑ってないでちゃんと受け止めろだとか怒るくせに、翼が堪えている姿を見るのは耐え難かった。何度謝っても足りないと、俺は翼を困らせるほど頭を下げて謝った。 

「蒼、もういいよ」

 翼は左足を動かさないように庇いながら、重い体を起こして、俺の頭を撫でた。いつになく優しい声色だった。お前、そんな声出せるのかよ。

「オレも蒼を怒らせたからちゃんと謝らないとな! ごめん」

 翼もまたちゃんと頭を下げて謝った。自分が些細なことで怒り始めたくせに、翼にはお前は何も悪くないと言った。

「蒼も悪くないのにな」

 そう言い合うと、なんだかおかしくて二人して笑ってしまった。やっぱりいつもの俺たちとは少し違った。けれど、こうして笑い合えたから良かったとでも言うべきか。

「二人とも仲直りできて良かったね」

 飛高は空気を読んでか、ずっとカーテンの外に隠れていた。俺と翼の雰囲気が良くなると、嬉しそうに顔を覗かせる。

「ひばりも来てくれたんだな!!」

 翼は、ぱっと表情を輝かせた。俺が来たときよりも嬉しそうなのは、曇った心が晴れたからだろうか。

「私、二人がお互いのこと思いすぎて辛そうなの見てられなかったから、いつもの二人に戻って本当に良かった」

 飛高は、きっと俺が何もできずにトイレに篭っていたあの時間、翼が俺のことを気にしているのを見ていた。翼が知らないところで、俺が後悔してひどい顔色で泣き潰れていた姿を見ていた。俺たちが互いに知らない、俺たちの本音を聞かされて一番ヤキモキしていたのは飛高だろう。

「飛高、巻き込んで悪かった」

 俺は飛高に申し訳なくなって、咄嗟に謝った。

「ううん、私も蒼くんに踏み込んだ話しちゃったし、お互い様というか……巻き込まれたと思ってないし、むしろ二人のことが知れて嬉しかったよ?」

 飛高は柔らかく笑った。そして、俺たちともっと距離を縮めていきたいとも言った。

「蒼のこと頼んだぜ!!」

 翼は、飛高に対してそう言った。俺が飛高に支えられたこと、飛高が俺をここに誘ったこと、全てわかっているのだろうか。

「頼まれた!!」

 飛高は、翼の言葉にノリ良くそう返した。二人が無邪気に笑う様子を見て、俺も思わず笑いそうになったが顔には出さなかった。けれど、今のこの空間は幸せだなと噛み締めていた。




「あんな翼、初めて見た」

 帰り道、俺は飛高を家まで送りながらそう呟いた。翼とは三歳の頃からよく知った仲で、ずっと一緒にいたというのに、あんなふうに辛そうな、不安そうな顔をしたのは恐らく初めてだ。

「それくらい、蒼くんとの関係が心配だったんだと思うよ」

 飛高は迷いなくそう言った。翼が俺との関係に固執しているなんてことは考えてもいなかった。むしろ俺の一方通行ではないかと思うほどに。

「蒼くんも、もし翼くんとこれからずっと一緒に居られなくなるって思ったら、やっぱり不安になっちゃうんじゃないかな?」

 それはそうだ。昨日後悔や情けなさで憔悴したのだから、嫌というほど思い知った。

「当たり前に一緒にいても、ある日ふとそうじゃなくなっちゃうことってあるから。その日のことを考えたら、やっぱりみんな不安になっちゃうって私は思うな」

 そう言った飛高の潤んだ目は、少し寂しそうに遠くを見つめていた。飛高は兄を亡くしているのだ。また泣かせてしまった。

「飛高、ごめん……」

「蒼くんって、本当すぐ謝るよね」

 飛高の言葉に何も返せなかった俺がようやく口を開いたと思ったらこれだ。飛高は思わずくすっと笑った。飛高の表情があまりにすぐ変わるもので、その様子がおかしくて俺も思わず笑ってしまった。

「蒼くん、普段笑わないからちょっと心配だったんだよね」

 普段からネガティブな俺は、滅多なことでは笑わなかった。普段笑わないから笑い方もわからないし、笑うのも恥ずかしかったから。その分翼がよく笑ってくれた。悲しみやネガティブな感情は俺が、楽しさやポジティブな感情は翼が持っていればそれでいい。俺と翼はそういう関係でもあったのかもしれない。

「ねえ蒼くん、今何考えてたの?」

 飛高に聞かれて、俺はずっと何も答えずに、頭の中で色々と考えるだけ考えて黙り込んでいたことに気づいた。

「笑うのも、こうやって返事をするのも、今までは全部翼だったなって思った」

 聞き上手な飛高には、つい自分の話をしてしまった。

「そっか〜。蒼くんと翼くんって、思っているよりもずっとずっと深い関係なんだね。でもね、やっぱりそれじゃ、蒼くんはしんどいじゃないかな?」

 飛高は納得したような顔でそういうと、俺を心配そうに見つめ直した。そこまでは言っていないはずだが、俺の返答で言外の意味や関係性まで掴んだというのか。

「蒼くんはそれで良くても、私は嫌だな。蒼くんにはもっと笑ってほしいし、たくさん話してほしい。それだと蒼くんばっかり辛い思いしちゃわない?」

 飛高にとって、俺はただのクラスメイトのはずなのに、どうしてここまで言ってくれるのだろう。俺なんて放っておいたところで、飛高の人生に何の損益もないだろうに。

「飛高には……」

 関係ないのに。そう言おうとして言葉に詰まった。俺は彼女の好意を突き放したいわけではないからだ。

「私には関係ないって蒼くんはそう思うかもしれないけど……。昨日のこと覚えてる? 私お兄ちゃんを亡くしたって話」

「うん……」

 記憶力はない上に、昨日は心の余裕もなかった。けれど、飛高のあの涙はしっかりと脳裏に焼き付いていた。

「私、お兄ちゃんが毎日苦しいのに何もしてあげられなかった。それなのに、お兄ちゃんは私にずっと心配かけてごめんねって謝ってばかりだった。お兄ちゃん、雲雀が自分の分も泣いたり笑ったりしてくれるから大丈夫だって言ってたけど、最期は感情がないみたいになってて、だから……蒼くんには絶対にお兄ちゃんと一緒の道を辿ってほしくないの」

 飛高はすぐに泣く。さっきまで泣いていたかと思えば、一瞬笑顔になって、また泣いた。

「飛高……ごめん……」

 しまったと思ったのは、癖のように謝っていた。咄嗟に口を押さえたが、もう聞かれてしまっているだろう。でも、女の子の涙を見て、罪悪感を感じないなんて俺にはできない。

「ううん、私こそごめんね。私、すごく泣き虫で、普段は頑張って泣かないようにしてるんだけど、蒼くんはなんとなくお兄ちゃんみたいで、我慢しきれなくなっちゃうんだよね」

 飛高は、誰にでも優しい、太陽みたいな女の子だ。だけど、きっと自分が兄のことでたくさん悲しんだから、人に優しくできるんだろう。

「飛高……」

 俺はカバンからウェットティッシュを取り出して手を綺麗に拭くと、飛高の頭を優しく撫でた。

 すると飛高は堪えきれなくなって、たくさんの涙を流しながら俺の胸に飛び込んだ。

 俺は飛高が落ち着くのを待とうと、すぐ近くにあった公園のベンチに誘導した。

「また悲しくなったら、俺のところで泣いていいよ」

 俺がそう言うと、飛高はもっとたくさん泣いた。兄がいなくなって、ずっと寂しいのを一人で我慢していたのかもしれない。
 飛高が俺の話を聴いてくれた分、俺と翼の仲を取り持ってくれた分、俺も飛高に何かしてあげたいと思った。

「雲雀……」

 俺は彼女の兄になることはできないが、彼女が似ているというのなら、感情を共有できるのなら、できるだけのことをしようと思った。さっきの話を聴く限り、兄には雲雀と呼ばれていたのだろうと推察して、翼以外で初めて他人を下の名前で呼んだ。けれど、不思議と恥じらいはなかった。今はそれよりも、彼女を励ましてやりたいと純粋に思っていたからだろう。

 すっかりと太陽が沈んだ頃、飛高は俺に「ありがとう」と言って、ベンチから立ち上がった。

「遅くまでごめんね」

 頭を下げると綺麗なポニーテールが重力に負けて垂れ下がる。足早に1人で帰ろうとするので、俺は咄嗟に手を掴んで止めた。

「暗いし、もともと付き合ってもらったのは俺だから送らせて」

 あ、家知られたくなかったら家の近くの途中まででも……と、尻すぼみに付け足すと、飛高はまた笑った。忙しい感性の持ち主だ。

「全然いいよ。むしろ、いつか家族に、お兄ちゃんに、蒼くんを紹介したいくらいだから」

 飛高はそう言うと、俺よりも早い足取りで歩いて行った。

 昨日沈んでいた俺の心は、翼と飛高のおかげで幾分も軽くなった。
 翼とは仲直りできたけど、どこかいつもの翼と違うことも事実で、俺にはまだそれが心残りだった。翼以外とは親しく話したこともなく、離れたこともなかったから、翼が隣にいないことで初めて気づいたこともたくさんあった。
 飛高はいつも俺を気にかけてくれる優しいクラスメイトだが、そんな彼女が俺を気にかける理由を昨日今日で初めて知った。
 同時に、いつも小さなことに気を取られて、他人を見ようとしていなかったこと、俺が周りに支えられていることも痛感した。

 普段支えられている分、今は俺が気をしっかりと持たなければならない。冷静で消極的な自分には考えられないような、熱い気持ちが込み上げた。
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