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プロローグ

 俺の夢は自然科学者になることだ。そのために、高校は県内屈指の進学校の理数科に通い、自然体験イベントには必ず参加するといった気合いの入れようだ。
「なあー翔太はなんで自然科学者になろうと思ったが?」
 部活で実験をしているとき、友だちの池田に聞かれた。池田は高校で出会った俺と同じ志を持つ親友だ。部活も同じで、生物部と地学部を兼部している。
「なんでか聞かれたら、自然が好きやき……かな」
「えー、なんかもっとすごい理由があるのかがと思いよったのに……意外やな」
 確かにそうだ。池田の言うとおり、俺が自然科学者になりたいと思ったのには、それ以上の理由があった。
「まぁ、そういうことにしちょって」
 池田には知られたくなかったので、そんなふうにごまかした。池田に知られたくなかったというよりは、俺が自然科学者になりたいと強く思うようになったあの出来事を誰かに話してはならないと思ったのである。

**

 あれは、俺がまだ中学三年生だったときの夏休みのことだった。自然に囲まれた空気の澄んだ村で、両親に愛されて育って、何も不自由なことはなかった。なにひとつ特別なことなどなく過ぎていく日々だった。あの頃の俺はまだ志望校すら考えていなかった。将来は何になりたいかと聞かれたら、ただ漠然と「公務員」と答える。そんな俺は、自分の好きなものさえも分かっていなかった。
 八月に入ってすぐ、俺は宿題の読書感想文に使う本を探すため、汽車に乗って街までやってきた。俺の家は市内から離れているから、街に来るのにも一時間ほどかかる。

「君、自然科学の研究に興味はないか?」
 街頭でティッシュを配る人や、塾生募集のビラを配る人がいたから、どうせどこかの専門学校の勧誘かなにかだろうと思っていた。
 自然科学……確かに俺は理科と呼ばれる科目が好きだ。家の裏にある山で草花を観察するのが好きだった。夜に星を観察するのも好きだ。好奇心のままに土を掘り返してみたり、家の機械の導線をいじったり。泥まみれになって遅くに家に帰り、虫を近づけては妹にいたずらをし、夜は星を見に行くといってこっそり家を抜け出す。動物を飼いたいと泣き喚いたことも何度かあった。親にしてみれば迷惑な子どもだろう。毎日そんな事をしているのに志望校も決めていないのだから。そんなことを考えた。
「興味はありますが……」
 そのような誘いには耳を傾けないようにしていた。第一に俺はまだ中学生だ。俺には特徴らしい特徴もないが、体格は小柄で、年齢よりも上に見られたことは一度もなかった。どうして俺に声をかけたのかという疑問が残るが、それだけ答えてこの場から去ろうとしたのだが。
「やはりそうですか。先程、道のわきに咲いている花を見ていましたよね? それが見えたので声をかけたのです」
 声をかけた男性は伸び放題の髪や長さの整っていない髭から、見た目には気を遣っていないのだろうと予測できる。髭はあるがでおじさんというには若い気がする。顔の割に大きな眼鏡をかけ、長身で白衣をまとっている。髭はあるがでおじさんというには若い気がする。その人は、目を輝かせて俺の言葉を遮った。ずっと高知で育った俺にとって、その人の話し言葉は妙に馴染めなかった。
「来ていただきますよ」
 その人は俺の左腕を強く掴んで引っ張った。今思えば、立派な誘拐である。しかし、このとき俺は不思議とその人についていきたいと思った。それに、その人が俺に危害を加えるなんてことが考えられなかった。その人を見ると、俺になにかしようという殺気や異様な雰囲気は放っておらず、ただ純粋にすごく嬉しそうな顔をしていたから。

 しばらく会話もなく、ただ歩いていると、男の人は急に足を止めた。連れて行かれた先は、二階建てで、一つの階に部屋が三つある古いアパートだった。その人は一階の真ん中の部屋の扉を開けてこう言った。
「ここが僕の研究室だよ」
 その部屋はお世辞にも研究室には見えなかった。部屋は六畳くらいの畳張り、ただでさえ狭い部屋には立派な体格の成人男性が寝るスペースもないくらい植物や爬虫類や魚類の入った水槽でいっぱいだった。俺は目の前の“大自然”に興奮して、水槽の中身を見てまわった。
「カナヘビですか?」
 俺は部屋にある水槽のひとつを指差してその人に聞いた。小さい頃から自然に囲まれて育った俺にとって、その爬虫類の名前くらいすぐに分かった。心の中で、トカゲに見えるけど尻尾の長さとか違うんだよねと得意げに説明した。
「僕は星野楓。この手の自然生物が大好きなんだ。でも、誰にもわかってもらえなくてね。去年東京の名門大学を出たばかりだというのに飛び出してきてしまったんだ」
「僕も自然、大好きですよ」
 星野さんの哀しい目を見ると思わず、言葉が出てしまった。嘘ではない。俺も純粋に自然が好きだ。

「またそんなに泥まみれになって。廊下掃除したばかりなのよ!」
 ふと、母のそんな言葉が思い浮かぶ。親に迷惑ばかりかけていたが、俺は自然と触れ合うことをやめようとはしなかった。そのときの気持ちは星野さんときっと同じだ。誰かにとがめられても好きなものは好きで、自分はそれを貫き通す。俺は頑固な性格だとよく言われる。自然を愛するあまりこんな田舎にわざわざやってくる、おそらく星野さんの両親は止めただろう。それでも自分の好きなことのために飛び出してきた星野さんはなんだか自分と似ている気がした。

「君の名前、聞いてもいいかな」
 星野さんは俺の手を取って、目を輝かせて尋ねた。
「徳井翔太です」
 俺の名前は普通の名前だ。翔太という名前は男の子の名前ランキングで長年一位を獲得していたものだ。つまり、どこにでもいるような名前の人間ということになる。姓名判断は吉。徳井という名字の天運はあまり良くないらしく、せめて地運と人運を良くしようと親がつけた名前が翔太だ。星野さんの名前を聞いたとき少し羨ましいとさえ思った。名前の運勢はわからないが、“星”に“野”そして、“楓”自然を愛する彼にとって、そんな良い名前があるだろうか。星野さんがどう思っているにしろ、俺はむしろ星野さんの名前に惹かれたのだった。心の中で星野さんの名前の漢字一つ一つをゆっくりと復唱した。
「星、野、楓。俺もそんな名前だったらな……」
 素敵な名前ですね、と言う前につい本音は口から出てしまうもので。
「そうだ、君はどんなものが好きなのですか。自然科学といっても生物学、物理学、化学、天文学、地球史学と幅広いものです。そうですね、私はやはり生物が好きです」
 好きかと聞かれ、俺は言葉に詰まった。自然に囲まれて育った俺にとって自然は生活の一部のようなものだ。そんなことは一度も考えたことがなかった。
「分かりません。自然は全部好きですし、何が好きかと聞かれても……植物や小さな生き物でも、自分と同じように生きていると考えると楽しいんです。星を見るのも、花や虫を観察するのも全部好きです。僕は身近にある自然が大好きなんです。小さい頃から草花や虫、星を見るのが本当に好きで、今でも週に一度は必ず家の裏山で花の観察をしたりしています」
 それ以外の言葉では言い表せなかった。俺が好きな自然は広い宇宙とか恐竜とか綺麗に咲かされた花とかそんなものじゃない。俺は身近な自然に魅力を感じるのだ。そんな俺に対して星野さんは、手を握っていた力をさらに強めてこう言った。
「翔太くんか。君は僕が出会った人間の中で最も素晴らしい人だ。ここまで自然を愛することができるのは一種の才能だ。僕も翔太くんのようになれればいいのに」
 東京の名門校出身だなんて立派な肩書きを放棄してまで、自然への興味を優先するような星野さんも十分な才能を有していることになるのに、星野さんの目からは俺をうらやむような悲しい視線を感じた。どうしたんですかなどと聞けるはずはなかった。
「星野さんほどじゃありません」
 俺がそう言うと、星野さんはお世辞を言うのはよしてくれといわんばかりに首を振った。もちろん、この言葉は冗談でもないし、お世辞でもない。
「僕はダメだ。この名前だって女の子のようだと言われ、好きじゃなかった。大学は東京大学の法学部。確かに日本でも最高難度の学校だ。だが、僕がそこに入った動機は、ただ名門大学だからというだけで、今の自然研究をしたいと言う願望とはほど遠いものだ。もちろん自然科学の勉強を始めたとき、親にもとめられた。ついに自立し、研究を始めてからも失敗ばかりで挫折を何度も繰り返し……」
「そんなの過去のことじゃないですか! 何度挫折したって、今ここでこうして自然を愛して研究を続けているなんて充分立派じゃないですか!」
 俺は感情的になってつい星野さんが言い終わる前に怒鳴った。消極的なことを言う星野さんに腹が立ってしまった。俺の悪いところ(見方によっては長所になりうることもあるが)は、一つめに頑固。二つめに諦めが悪い。そして、三つめに思ったことをすぐに口に出したり、行動したりすることだ。これは考えなしで口走ったことだった。
「失礼します」
 力任せにドアを閉めて、星野さんの研究室を後にした。
 勢いで出てきてしまったが、星野さんはほかにも事情がありそうな雰囲気だった。最後まで星野さんの話を聞いていればとアパートから少し離れたところまで走ってから思った。だが、俺の性格上、一度言ったことを訂正するなどといったことは絶対にしたくなかった。俺は星野さんの研究室には引き返さず、そのまま家に帰ろうとした。

 走るのに夢中で気づかなかったが、外は雨だった。辺りは日の光が雲に隠れて暗くなっている。星野さんに連れてこられたとき、空はまだ綺麗な青色だった。

 俺は道端で見つけたヒマワリに、大きくなれよと確かに呟いて、駅に向かった。汽車が最寄り駅に到着すると、雨が激しくなっていた。あいにく傘を持っていなかったので、歩いて十五分くらいかかる家までの道のりを濡れて帰った。

「もう、あんたはこんなに濡れて!はようお風呂に入ってき!」
 自然に夢中になるがゆえに親に怒られてしまう、そんないつもの日常が輝かしく感じた。シャワーを浴びながら今日の出来事を振り返った。
「星野さんに失礼なこと言ってしもうたがやろうな……」
星野さんに出会ってから、何も意識していなかった自分の自然への愛に気づき、大切な何かを見つけた気がした。

「翔太、志望校はもう決めたが?」
 この間までは、漠然としか将来を見据えていなかった。むしろ、何も考えていなかったに等しかった。しかし、星野さんとの出会いは、俺の将来を動かす結果となったのだ。
(俺は、自然が好きながや。当たり前すぎて気づかんかったけど……)
「理系の学校。自然の研究したいき」
 親にはそれだけを簡潔に答えた。反対されることは何となく目に見えていたけれど、自分のやりたいことを貫きとおしたいと思った。
「そうか、あんたが決めたことやったら投げ出さんと続けよ。止めてもどうせ聞かんがやろ?」
 親から返ってきたのは意外な答えだった。

「明日、星野さんに謝ろう」

**

 一日が過ぎた。昨日の雨に濡れたせいで体調を崩してしまい、その日は家から出られなかった。よりによって熱まで出してしまった。確か、夜に星を見に行って、身体を冷やして風邪を引いたことがあった。川に魚を捕まえに行ったときも、雪が珍しくてはしゃいだときもそうだった。思えば昔からあまり身体は強い方ではなかった気がする。でも、なんだかんだで今までやってきたのだから、少し星野さんの研究室に行くくらいなら大丈夫だと思った。
そう、行こうと思ったのだったが――
連日の悪天候と熱でだるい身体は何となく気持ちまでをも後ろ向きにしてしまう。昨日の雨は未だに降り続いていた。雨の音に混じって強い風が窓に吹きつける音が聞こえた。

 外には出られないが、一日中寝ているのも退屈だったので、テレビをつけた。
「台風13号の接近により、高知県全域に大雨洪水警報です。交通機関も運転を見合わせています」
 熱でぼんやりする頭だが、汽車が止まっているという言葉だけはしっかりと引っかかった。そうか、一人で行くにも行けないのか…と思った瞬間、無意識に「めんどくさいな」という言葉が漏れていた。会いに行っても、もしかしたらいないかもしれない。強い風に傘が飛ばされるかもしれないし、横殴りの雨は防げそうにない。そうなったら風邪も悪化するし、こんな状態で会いに来られる方も迷惑だろうと様々な言い訳を並べて、星野さんに会うことを避けていた。明日がある、たとえ明日が無理でも明後日がある。そんなことを考えていると、窓が揺れる音がだんだん小さくなって、そこから先の音は聞こえなくなった。

 さらに一日過ぎると、会いに行くのが嫌だと思うようになった。まだ少し熱がある。台風はもうほとんど通り過ぎていたので、雨はやんでいた。しかし、今にも雨が降りそうな黒い雲が空を覆っていた。
「悪いのは全部俺やのに……」
 星野さんに勝手に叫んで帰って、雨の中を堂々と濡れて帰って、そして風邪を引いてしまった。その上、行きたくないからといってどんどん日が過ぎていくとこのままではずっと星野さんに会えなくなってしまう。だから、俺は今度こそ謝りに行くと重い身体にそう言い聞かせて家を出た。

「あのときのヒマワリ、台風で飛ばされたがか……。せっかく綺麗に咲いちょったのに残念やな」
 星野さんに怒鳴って帰った後、確かに道端で咲いているヒマワリに声をかけた。同じ場所のはずなのに、そこにはヒマワリなんて最初からなかったかのようだった。
 
 早く謝らなければならないという気持ちが先行し、ノックするのも忘れてただ扉の前でこう言った。
「星野さん、すみませんでした。失礼なことを言ってしまって」
返事はなかった。しばらく待っていると、スーパーの袋をもって隣の部屋へ向かうおばさんにすれ違いざまに声をかけられた。どうやら、星野さんの研究室の隣に住んでいる人のようだった。
「おかしな子ね。そこの部屋は私が越して来たときからずっと空き家だけど、誰か住んでたの?」
「えっ……」
 俺は言葉を失った。頭が混乱して、何があったのか理解できなかった。熱のせいで夢を見ているのか、それともおばさんは俺をからかっているのか。頭が真っ白になってただそこに立っていることしかできなかった。
「それとも部屋間違えたの? 誰に会いに来た?」
「三日前に、ここに来たんです。星野さんっていう人に連れられてこの研究室に……」
 おばさんは不思議そうな顔をして俺を見た。この子はなんて変なことを言う子なんだろう、そんな疑問がはっきりと顔に表れている。
「すみません、もしかしたらアパートを間違えてしまったのかもしれません」
 一人になりたかった。だから、星野さんに怒鳴って帰ったときと同じように、その場から走り去った。
 何故だかわからないが、そこから先のことは何も覚えていなかった。

 目を覚ますと、自分の部屋のベッドで寝ていた。星野さんに会ったのは夢だったのだろうか。熱が上がりきって、その後の俺の記憶がはっきりしていないのかもしれない。解熱シートを額からはずし、ごみ箱に捨てた。不思議と身体は軽かった。
「星野さん、ありがとう」
 そう言って、ベランダのアサガオに水をやりに外へ出た。

『君は私が出会った人間の中で最も素晴らしい人だ』
 星野さんのあの言葉を、あの時の期待に満ちた表情を、俺は一生忘れられないだろう。

 できることなら、星野さんにもう一度会いたかった。会って謝りたかった。でも、俺には星野さんのアパートに行って確かめることができなかった。星野さんが現実なのかそうでないのかはっきりさせることが怖かった。
 俺が今、この田舎で一番の理系学校に通い、自然研究に励んでいるのは、星野楓という存在が俺の記憶から消えないことが要因だ。

――なんで自然科学者になろうと思ったが?

 それは俺が心の中で星野さんと約束したからだ。
「立派な自然科学者になって、星野さんの期待に応える」
 この約束が守れるかどうかは、まだわからない。でも、俺はこの大好きな自然というものを大切に守っていきたい。自然は星野さんと俺を繋ぐ唯一の存在だからだ。

 星野さんとのたった一時間が、今の俺を動かす、まぎれもない原動力となっているのだ。自然が見せた星野楓という幻影はこれから先もずっと、俺の心の中で生き続けるだろう。
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