3話 本音

 愛莉を諦めなければならない。

 希望に満ち溢れた真純の中学校生活の初日は、悲しい幕開けだった。
 体調はこれまでより良好なはずだったのに、周囲との関係も今までに比べたら随分とましだったはずなのに、それが嘘であるかのように、心だけがズンと鉛のように重たかった。
 ただ一言、愛莉放った言葉がその全てだった。それほどまでに自分の心が、愛莉との思い出でいっぱいだったのかと気づけば、去って行く愛莉を追えなかった後悔で余計に胸が締め付けられる。

「痛い……」

 ざっくりしたカテゴリで病気の話をすると大抵の人は顔を曇らせる。そして専門家に詳しい病名を伝えるとさらにわかりやすく暗い顔をした。それは移植以外の方法で完治することのない、いわゆる難病だ。それでも、胸痛は薬を飲めば一時的にでも楽になる。何度も何度もそうやって痛みに慣れてきたはずだ。

「真純、大丈夫?」

 純太は、ベッドに腰を下ろして胸を押さえたまま動きを止めた真純を心配して顔を覗き込んだ。

「大丈夫。精神的なやつだと思うから」

「そう? 顔色も良くないみたいだから、無理はしないで」

 真純がこうやって何か隠そうとすると、純太はそれに気づいて、いつもならもう少し問い詰めてくる。けれど今日はそうしなかった。そんな純太の様子が少し気になったが、今は心のモヤモヤを晴らしたい気持ちの方が強かった。

「あのさ、なんで純太は愛莉の居場所を知ってたんだ?」

 変わり果てた愛莉の姿を目の当たりにしたというのはもちろんあったが、純太がそんな愛莉のことを知っていたことはずっと引っかかっていた。愛莉は純太にだけ心を開いているのだろうかとか、純太なら彼女のことを助けるだろうにだとか、色々と考え込んでいた。

「ちょうど前日にそこで泉さんを見かけたんだよ。だから今日もそこにいるかなと思ったんだ」

 純太は本当に偶然だと説明した。真純にはそれが嘘か本当かはわからなかったが、愛莉を諦めようとしているはずなのに、純太と何も関係がないことを信じ、安堵している自分の心に戸惑いを隠せない。

 もう諦めようと、忘れてしまおうとすればするほど、愛莉が好きだという事実が強化されていく。本当は何としてでも愛莉に寄り添って愛莉を幸せにしたい。でも自分にはそれができないこともよくわかっている。先がないだけではない。愛莉を不幸にしてしまった張本人は紛れもなく自分なのだから。

 そして愛莉が言った言葉を思い出すと、涙が溢れて止まらなくなった。もし愛莉が自分のことを恨んでいて近づいてほしくないと言ったのなら二度と近づかないほうがいいのだろう。
 一度冷静になろうと振り払っても、何度でもそう考えては心が揺れる。

「泉さんと何かあったの?」

 突然泣き出した真純を見て、純太はそう尋ねた。真純はこのことを純太に言うべきか言わないべきか迷った。純太に相談したところで、その答えが「諦めるべき」だとしても、「愛莉のそばにいるべき」だとしても、どちらにも納得できないことはわかっていた。それは完全に自分の意思だけで決めたところで同じだ。

「なあ、何悩んでんのか知らねぇけど、お前がアイツ狂わせたんだからよ、責任は取るべきだろ」

 換気のために開けられていた窓からは、哲志がひょっこりと顔を覗かせた。

「うわっ! び、びっくりした!! 心臓止まったらどうすんだよ!!」

「シャレになんねぇこと言うんじゃねぇよ」

 真純はびっくりしてのけぞったが、哲志は何も気にしていないかのように冷静にツッコんできた。そのおかげか涙はひっこみ、少しだけ心の錘が軽くなった気がした。

「話戻すけど、お前はどうしたいんだよ。どうすべきかじゃなくてさ」

 哲志は態度や表情をコロコロ変える方ではなかったが、長年付き合ってきた真純には、今の哲志が真面目な話をしていることは伝わった。

「俺は……愛莉とまた一緒にいたい。愛莉を助けたい」

 真純の本音は言葉通りのいたって単純明快な想いだ。また愛莉と笑い合える日が来てほしい。これが今の一番の願いだ。

「んじゃあそれでいいだろ。それ以上考えなくていいんだよ」

 哲志はそれだけ言うとじゃあなと言って去っていった。いつだって気楽で、難しいことは考えない。哲志のそういうところは多少見習った方がいいのかもしれないが、それを許せる性分ではない。
 真純自身もそれ以上のことを考えたいわけではない。けれど、気がつけば勝手に考えを巡らせてしまうのだ。努めて明るく、悩みなんてないかのように振る舞いたいのに、頭の中ではぐるぐるとネガティブなことを考えてしまう。それが悪癖だということも理解している。

「あいつ、何しに来たんだ?」

 短いやりとりを終えて帰っていった哲志の遠ざかる背中を見ながら真純は不思議そうに首を傾げた。

「てっちゃんも真純が心配だったんじゃないかな?」

 純太はそう言いながら真純の隣に座った。何を言わずともわかってはいたが、その言葉からは隣に並んだ純太が自分も心配しているよという温かい気持ちを感じられた。


「真純が入院中も大事に持ってたハートのキーホルダーあるよね?」

「えっ? うん……」

 純太の予期せぬ質問に真純は困惑の表情を浮かべながら返事をして、カバンの中からキーホルダーがついたポーチを取り出した。キーホルダーは、松葉ストラップにプラスチックの立体的な青色のハートがついたシンプルなものだ。

「これ、愛莉とお揃いって買ったんだ」

 キーホルダーを手に取り、純太に見せると真純は優しい表情でそう言った。

 それも束の間で、キーホルダーを見つめていた真純の目からはまた涙が滲んだ。

「おれ、もう……っ……」

 愛莉と過ごした楽しい日々が押し寄せてきたのだ。もうあのような関係には戻れないかもしれない、その思いが嗚咽となってこみ上げた。
 真純の言いたいことを察した純太は、大丈夫だよといいながら何度も骨ばった背中をさすった。

「泉さん、今でもそれを大事に身につけてるんだ」

 その言葉で、一瞬真純の表情には希望が見えた。真純は繊細で少しのことでも心が曇ってしまう。けれど、その分晴れるのも早いのだ。

「きっと、泉さんも真純と同じ気持ちなんじゃないかな?」

 愛莉は真純との日々を忘れたはずだった。いや、忘れようとしていた。しかし、それだけはどうしても手放せなかったのか、いつも鞄につけて持ち歩いていた。と純太は解釈し、やっぱりまだ真純のことを大切に思っているのではないかと考えていた。
 本人の口からそう聞いたわけではなかったが、確信に近い何かが純太の中にあって、おせっかいをせずにはいられなかった。

「愛莉が俺と同じ……」

 確かめるように真純はそう呟き、手に持っていたハートのキーホルダーを強く握りしめた。

 哲志と純太のおかげで少し悩みが晴れた気がした。

「俺はやっぱり愛莉のそばにいたい。いられるように精一杯のことをしたい。愛莉が俺にしてくれたように、俺が愛莉のこと守りたい」

 決意を明確にしようと、純太の前で誓いを口にした。

「僕もその方が真純らしいと思うよ」

 愛莉のことを守ると決めた以上、同時にどんな辛いことが待っていようと、泣かずに立ち向かうことを心に誓った。
 
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