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1話 記憶

 わたしは病院から逃げるように無我夢中で走っていた。帰り道がわからないなんてそんなことはどうでもよくなり、忘れていたことを思い出す恐怖だけが支配していた。
 人間、あまりにショックなことがあると記憶を封印してしまうようなことがあるらしい。だから、その人物のことを思い出すのがきっとわたしにとって良くないことのように思えて仕方がなかった。

 わたしはタクシーを拾って家まで帰りつくと、さっきまでのことを忘れようといつも通りキッチンに立った。調理をしようと食材を出し、包丁を握ろうとしたが、今になって傷の存在に気付いた。また、嫌な何かが襲ってきた。その不快な緊張感にドクンドクンと脈を打つように傷口が痛み出した。その脈打つ感覚さえもわたしの心をひどくかき乱すような嫌なものだった。そんなことは忘れたい気持ちといっそ思い出した方が楽かもしれないという気持ちがせめぎ合ってわたしを苦しめる。
 もう寝ようと夜は何も食べずに寝室に向かった。着替えを済ませ、すぐに横になる。色々なことが起こりすぎて、今日は疲れて眠れそうだと思ったけれど、やっぱりわたしの忘れている何かを思い出そうと脳が活発に動いているのか眠れなかった。無理やり目を閉じても、小学生のわたしと誰かが笑いあっているのがぼんやりと浮かんできては、目を開けてしまう。やっと眠れても、救急車のサイレンの音が鼓膜を突き破りそうなくらい大きく聞こえてきて目を覚ましてしまう。一晩中そんな悪夢と闘った。

 わたしは眠れないまま、学校に向かおうと制服に着替える。髪は何故だかわからないけど気付いたときには金色に染められ、スカートも短くなっていた。そんなものかとわたしはそのままにしていた。白い靴下を履き、シャツのボタンを一番上まで留める。学校には遅刻しないように定時までに登校して、何をするでもなく教室の自分の席に腰かけて、授業が始まると教室から出ていった。誰もいない場所を探して、使われていない校舎のトイレの裏で勉強をしていた。自分の行動がちぐはぐなことはわかっているけれど、良い子でいようとする自分、不良として素行の悪いふるまいをする自分、どちらもが義務のようにわたしの心を中途半端に動かして、行動を支配する。もう二年以上それを繰り返していた。

 だけど、その日常が終わりを告げた。
「泉さん……! ここにいたんだね。探したよ」
 昨日のあいつがわたしを探し回っていたみたいで、昼休みについに場所を割られてしまったわけだ。
「何か用?」
「あのね、昨日泉さん突然帰っちゃって、心配してたんだ」
「頼んでないわよ。用がそれだけなら帰って」
 帰られて迷惑だったっていうクレームなら聞きたくないし、心配してほしいとも思っていない。彼に居場所を突き止められて心底迷惑している。

「このキーホルダー、泉さんのだよね? 真純も同じの持ってたから聞いてみたけどちゃんと持ってるって。だから泉さんのものだと思ったんだけど……って泉さん、大丈夫?」
 わたしはまた耳を塞いで座り込んだ。昨日の出来事、悪夢、今日のことで気づいた。それは、わたしのこの心の苦しみは特定のワードや音声を聞いたときに起こることに。そして、それが結びついたとき、目の前のこいつの存在が、キーホルダーが、わたしのちぐはぐな問題行動も、何から逃げて、何を思い出せないのかが全部ひとつにつながった。

「まこと……くん……」
 絞り出したかのような声と一緒に目の前がぼやけて、冷たいものが太腿にポタポタと落ちるのを感じた。
「やっぱり、泉さんが真純の言ってた”愛莉ちゃん”なんだね。会いたがってたよ」
 わたしは涙が止まらないのに心の中で少し喜んだ。わたしが忘れていた間もちゃんとわたしのことを覚えていてくれていた。そういえば、昨日病院で三日後には退院できるって言っていた。ああ、やっと真純くんに会える。どれだけ望んでいたかわからない。それほど待ち焦がれていた瞬間が目の前に迫ってきている。
「でも、わたしは会う資格なんかない」
 けれど、わたしはそう口にしていた。心では会いたいと願っていて、嬉しいと思っているのに、向こうもそれを望んでいるのに。
 ……違う。真純くんが望んでいるのは今のわたしなんかじゃない。小学生のときのわたしだ。だから、こんなわたしを見たってきっとがっかりする。もしかしたら口もきいてくれないかもしれない。そんな不安でいっぱいになって、急に会うことに臆病になってしまうのだ。
「でも……」
 純太が何か言いかけたところで予鈴のチャイムが鳴った。普段使っている校舎から離れているから、今から走ってギリギリというところで、彼は慌てて走り出した。
「でも、真純は泉さんに会えるのを楽しみにしてるよ」
 走り去りながら彼はわたしに向かって叫んだ。
 真純くんに会いたい気持ちはもちろんある。けれど、真純くんをがっかりさせないためにわたしは会わないようにしようって決めた。

 そもそも、どうしてわたしがこんなふうになってしまったのか。それは小学六年生から中学に入学したての頃の話だ。

 わたしと真純くんは他に誰も寄せ付けない程仲が良かった。……というよりはクラスメイトから避けられていたけれど。小学四年生のとき、わたしはクラスに馴染めていない真純くんに声を掛けた。それから、そんなきっかけが嘘のようにわたしたちは仲良くなった。毎日一緒に勉強して、会話して、他愛のないことで笑いあって、それだけで幸せだった。仲良しの証だって照れ臭そうに笑った真純くんは、わたしに似合うキーホルダーを選んでくれた。お揃いにしようと言って自分の分も買っていた。
 だけど、真純くんとの幸せが増えれば増えるほど、辛いことも沢山増えた。学校でのいじめ、使用人からの虐待、頼れる人は真純くんしか居なかった。でも、そんな真純くんもわたしの前から居なくなってしまった。もともと心臓の病気だった真純くんは、わたしの目の前で倒れて、救急車で病院に運ばれた。
 また前みたいに笑いあえる日が来ると信じていたわたしはずっと待っていた。けれど、何週間経っても真純くんの意識は戻らなくて、わたしは怖くなって聞くのをやめた。会いに行きたいけれど、ICUに小学生は入れないと門前払い。会いたい気持ちと会えない現実、会ってもきっと真純くんはわたしの呼びかけに答えることもできない。わたしは毎日真純くんが帰ってくる日だけを待ち焦がれていた。ただひたすら待っていても、真純くんは帰ってこなかった。
 中学に入学してから数日後に、わたしをいじめていた男子が遊び半分でわたしの長い髪を切り落とした。わたしは急いで美容院に行ってなんとか髪を仕上げたけれど、似合わないとバカにされた。ひざ丈だったスカートに落ちないペンキで”病原菌の仲間”と書かれてあったのが許せなくて、自分でスカートを短く切った。開き直ってやろうと、短くなった髪を母親が持っていた染髪料で染めた。そんな奴らの顔を見るのも嫌になり、授業に出なくなった。
 わたしは見事に不良のレッテルを貼られ、いじめよりもひどい迫害を受けるようになった。それからわたしはそれより前のことがなかったみたいに、不良の自分を演じ続けた。そうすれば前の自分を忘れられるから。誰にも頼らないで生きていけるから。もう今までのわたしとは違うわたしで生きるって決めたから。そうすれば、辛いことも辛くなくなる。それがわたしの日常だって思う方が楽だったから。
 そのためにわたしは良い子の自分を捨てたのだ。そして、わたしがそうなってしまう経緯も全部忘れて、それが当たり前だったかのように変わろうと思ったのだ。

 別人のわたしだからもう真純くんには会えない。覚えていてくれてありがとう。心の中でそう言ってわたしはいつもの居場所から移動した。未練がましく涙を流しながら。
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