1話 記憶

「わたしには関係ないでしょ!!」
 突然職員室に呼び出されたかと思えば、男子トイレの内扉を壊したのは泉だろと冤罪をふっかけられ、負けじと言い返した。
「じゃあ他に誰がいるって言うの?」
 わたし以外にいるはずもないと確信したように迫り返してくる。
「そうだ。泉には前科がありすぎる」
 すかさず別の教師が割り込んできて、周りもそうだそうだと言わんばかりにこっちを見ていた。わたしがどう弁解しようが、誰1人味方がいないことは決まりきっていた。それが3年間かけて失った人からの信頼だった。
「ねえ、こっちは忙しいの。早く自白してよね。でないと全校集会であなたがやりましたって話すわよ」
 教師にあるまじき脅迫。わたしもわたしだったけれど、この職員室は腐りきっていた。

「あのさ、俺、男子トイレの扉壊した奴見たんだけど。あ、そいつじゃねぇ奴な」
 諦めて自分がやりましたと言わされかけたとき、職員室のドアの前に立つ背の高い男がそう言った。
「忙しいなら関係ねぇ奴責める前にちゃんと調べろよな」
「あらそうなの。じゃあ、その犯人はいったい誰なの?」
 教師は自分の非を認めることもせず、その場をやり過ごそうとした。わたしは怒りというよりもそんな教師たちの態度に呆れ果てていた。背の高い男の横にいた小柄な男は拳を握りわなわなと震えていた。
「犯人捜しの前に、泉さんに謝るべきだよね」
 そう言った小柄な男を見て、面倒くさそうな顔をして、投げやりに謝った。全く誠意を感じない謝罪に、男二人も呆れていた。
「泉さん……」
 同情するようにわたしを見つめた小柄な男に、わたしは不思議な感じがした。何とは言えないけれど、心がかき乱されそうな気がした。
「何なのよ。わたしなんかどうでもいいでしょ。これ以上わたしにかかわらないで」
 わたしはそれだけ言って、職員室を後にした。

 みんなわたしを蔑ろにしてきたのに今更他人ひとを信用できるわけがない。
 そう思いながら、家に帰ろうと靴箱に向かう途中、わたしをくすくすと笑う声が聞こえた。そして、靴を取り出そうとすると、ぐしょぐしょに濡れた靴にゴミや画鋲が入っていた。

 気がついたときには、こんなことはしょっちゅうあった。いつからなのかははっきり思い出せないけれど。
 伸ばしていた長い黒髪はいつの間にか短い金髪になっていた。膝丈だったはずのスカートは太ももが見えるくらい短く切り落とされていた。友達も家族もいない。教師からも敵意を向けられていた。
 わたしがこうなってしまったことはずっとぼんやりとしていて記憶がなかった。けれど、どこかで見たことがあるのか、泉さんに謝るべきだよねと言ったあいつの顔は何故か温かく感じた。
 あんなことが続いて、生きるのをやめたくなったとき、誰かがわたしを引き留める。行きたくない学校に向かわせる。そして、わたしに勉強をさせる。誰かわからないその人が、ずっとわたしを笑顔で励ましてくれるのだ。あいつ自身には全く覚えはないけれど、ぼんやりとしかわからないその人にとてもよく似ている気がした。

 何が気に入らないのか自分でもわからないままに、今日も一枚ガラスを割った。けれど日常のように繰り返されるわたしの問題行動の中で今日のそれは異質だった。
「またかよ……、……?!」
 野次馬たちもそのおかしさにざわついた。いつもより騒ぎが大きかった。わたしも頭の整理がつかなくて、自分の腕から流れる大量の赤い液体を呆然と眺めていることしかできなかった。
「手を出して」
 野次馬をかき分けて、わたしに話しかけてきた物好きがいた。
「わたしなんかほっといて」
 そう言い放ったわたしの声を無視して、手を差し出して立てるか聞いた。またあいつだった。わたしの体を支え、血が流れる腕をわたしの肩くらいまで持ち上げ、ガラスの破片が飛び散るその場から距離をとった。そして、恥ずかしそうにごめんねと言った彼は、持っていたハンカチでわたしの二の腕を縛った。

 手当てをするからと保健室に移動したが、誰もいなかった。少し申し訳なさそうに、勝手に使ってすみませんと小さく謝り、ピンセットやガーゼ、絆創膏などを集めてきた。そして、腕に刺さるガラスの破片をピンセットでひとつひとつ丁寧に取り除き、傷口を洗い流してガーゼで軽く拭いて、別のガーゼとハンカチで傷口の上を覆い、圧迫した。見事な手際だった。
「応急処置はしたけど、念のため病院で診てもらった方が良いと思う」
 いたって真面目に、そして優しくわたしを見つめる彼の顔を見ていると何故だか安心した。わたしの覚えていない懐かしい、楽しい思い出を呼び起こさせてくれるような気さえした。
「ねえ、病院一緒に来てよ。手当のこととか説明できないし」
 なんとなく、もう少し傍にいたいという気持ちから、そう口にしていた。それに対して彼はもちろんとほほ笑んだ。
 
 病院の入口付近まで来て、わたしは最も聞きたくない音に耳を塞いだ。何故だか全身が震え、耳を押さえながらしゃがみ込んでしまった。目の前を救急車が通り過ぎていく。彼はびっくりした顔をしながらも、救急車の邪魔にならないようにわたしを支えて壁際に寄った。そのあと、中庭の椅子に座らせて、落ち着くようにと水を買ってきてくれた。
「取り乱して悪かったわね」
 少し落ち着いてわたしは数年ぶりに誰かに謝った。あの音を聞くと、封じ込めていたなにか嫌なものが溢れ出しそうな気がして、正気を保てなくなった。これまでは耳を塞げばなんとかやり過ごせていたのに、何かを思い出そうとしているのか、良い思い出も、悪い思い出も、凍り付いた心の奥底からじわじわと溶け出してくるようだった。今日突然そうなったのは、間違いなく隣にいるこの男のせいだ。
 こんなに心が乱れるのなら、いっそすべてを思い出した方が良いのかもしれない。でも、記憶を封じてしまうようなことを本当に思い出してもいいのか不安で、何故だか涙が溢れていた。
 自分が元凶とは知りもしない隣の男は、わたしを見て慌てた様子で背中をさすろうとしたが、突然ハッとして手を引っ込めた。場にそぐわないその反応を見て、わたしは逆に冷静になり、診察に来たことを思い出した。そもそも、こいつといるから余計なことを考えてしまうんだ。
「泉さん?!」
 急に立ち上がり、スタスタと歩き出したわたしに驚きながらも、後をついてきた。わたしから一緒に来てほしいと言った手前、ついて来ないでとは言えなかった。
 
 診察室についた頃には出血もだいぶ止まっていた。応急処置が適切だったと言われたが、傷口を縫合した方が良いと処置室に移動することになった。その間も彼は何も言わずにわたしのことを見ていた。
 処置が終わると、彼は自分も弟の見舞いで用があるから残ると言って、わたしと別れた。わたしはなんとなく好奇心で彼の後をついていった。
 外来のある建物を出て、入院病棟の方へ向かい、エレベーターの前で彼は足を止めた。彼はわたしの方を見て、一緒に来るかと尋ねた。とっくに見つかっていたのだ。わたしはどうしようか迷っていた。彼のことを知りたい、けれどわたしが踏み込んでいいものなのか考えるとどうしても尻込みをしてしまう。
「どうせなら、あんたの弟の面でも拝んでやるわよ」
 知りたくないか知りたいかと問われれば迷わず後者を選ぶ。わたしは素直についていきたいとは言えず、そんな憎まれ口を叩いて、ちょうど到着したエレベーターに乗り込む。
 六階の小児科病棟には、小さい子どももたくさんいた。純太くんと彼を慕ってくる子どもたち。彼の名前は純太というんだとわたしは初めて知った。どこかで聞いたことがあるかもしれない、けれどやっぱり思い出せなかった。
 しばらく廊下を進んで、ある病室の前で彼は足を止めた。そこは四人部屋らしく、四人の名前が書かれていたが、わたしにはそのうちのひとつしか目に入らなかった。
 【林真純】という名前を見た瞬間、救急車を見たときと同じように、何かがフラッシュバックしそうになり、背筋がゾワッとして妙な緊張が走った。
 わたしが部屋の前で立ち尽くしていると、中から看護師が出てきた。
「あら純ちゃん、ちょうど良かったわ」
 純太を見るなり嬉しそうに話しかけてきた女性看護師。見るからに彼とそっくりな顔をしていた。そう言うなり、中にいるであろう医師を呼び、すかさず純太の後ろに隠れたわたしには気づかずに、会話を進めた。
「真純、三日後に退院できるよ。今のところ経過も良いし、学校にもまた通えるよ」
 中から出てきた男性医師が嬉しそうに言った。そこまで聞いて、わたしはやっぱり耳を塞いだ。幸せそうな笑顔がこぼれる空間でわたしだけが心のない人形みたいに笑うことができなくて、その医師の発した『真純』という名前がわたしの空白の時間を一気に駆け巡った。名前を見たときの感覚はやはり、わたしの閉じ込めた記憶と関係があったからで、その文字が音と結びついた瞬間に薄くてぼんやりとしたモノクロの景色に色がついたように鮮やかに輝いた。まだ記憶のすべてを思い出すことは出来なかった。けれど、わたしなんかがこんなところにいていいはずがない。それだけは痛いくらいはっきりとわかった。

「泉さん……!」
 彼が呼ぶのを振り切るようにわたしは逃げた。何かを思い出せそうな気はするが、それを思い出してもいいものなのか、まだわたしにはわからなくて、怖かった。
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