夏衣

​「薪ちゃん、 完璧なシュクジョだったよ。カッコよかったぁ〜」

​ お祭りの提灯の明かりが遠ざかる夜道。
 ふわふわの、マイメロのぬいぐるみを嬉しそうに抱きしめながら、舞が弾んだ声で言う。
 射的を全弾命中させ、金魚すくいで無双した姿が、舞の目には最高に格好良く映ったようだ。

​「そうか。なら、よかった」

​ 三匹の和金がひらひら泳ぐポリ袋を綺麗に指先に引っ掛けた薪は、少し照れくさそうに頷いてみせる。
 二人の後ろを歩く青木は、笑いを堪えるのに必死だった。

​「いや、薪さん、淑女は普通『かっこよく』はないですからね……?」

​「うるさい。結果として舞が喜んでいるなら、それでいいだろ」

​ ふいとそっぽを向いた薪の身体に、浴衣は一層美しく馴染んでいる。
 青木の大きな身体を包む墨黒のしじら織の着流し姿も、境内で思いきり跳ね回ったはずの舞の小さな浴衣もほとんど着崩れしていない。
 青木の母は若い頃、離れで人に着付けを教えていたくらい、着物を知り尽くした人だ。薪に女性用の浴衣を美しく着せるのも、動き回る子供の着付けも造作ないことなのだろう。

​ 夜の静けさに向かう家路。
 歩調を合わせて手を繋ぐ薪と舞、そしてその傍らで二人を見守るように歩く背の高い青木。
 すれ違う人が微笑ましく振り返るような、幸せな「親子三人」の様相を呈していた。



​「おバァちゃん、ただいまー! ほら見て!」

​ 玄関の引き戸を開けるなり、舞が満面の笑顔でマイメロのぬいぐるみを掲げて見せる。
 居間から顔を出した青木の母が、その姿に破顔した。

​「おかえりなさい、よかったねぇ。可愛らしいぬいぐるみ。でも舞、すっかり汗だくじゃないの。髪の毛まで濡れてるわよ、先にお風呂だね」

​「マキちゃんと入るぅ〜!」

​「いや、舞。マキちゃんは……」

​ 青木が慌てて止めようとしたが、玄関まで出てきた母が優しく舞を抱き寄せた。

​「おバァちゃん、舞と入りたくて待ってたのよ。マキちゃんには少し休んでもらいましょう」

​「えー、なら、おバァちゃんがいいー」

​ 素直に脱衣所へと向かう舞の背中を見送りながら、青木は台所へ声をかける。

​「ちょっと待った。母さん、金魚鉢ってまだどこかにあったっけ」

​「ええ、確か、納戸の棚の奥に昔のがあったはずよ。洗って使いなさい」

​ 細やかで弾むような足音と、優しい小さなすり足の音が浴室へ。ガラス鉢を探す尺の長い足音の重みが離れへと消えていく。
 賑やかで温かな家の空気を感じながら、薪はビニール袋の中を泳ぐ金魚たちを、しばらくうっとりと眺めていた。


​ 全員がお風呂を済ませ、離れでは舞とおバァちゃんが眠りについた時間。
 家中の明かりが落とされ、実家はしんと深い静寂に包まれていた。

​ 縁側の片隅、ぽつんと灯る足元灯の薄明かりのなかに据えられた、古いガラスの金魚鉢。
 浄水器でカルキを抜いた鉢の中の水には、金魚の仮住まいのポリ袋が浮いている。

​「急激な水温の変化は、この小さな変温動物には命とりだ。ゆっくりと時間をかけて馴染ませなくては」

​ じっくりと時間をかけて水温を馴染ませたあとに、ようやく放たれた水と金魚たち。
 黒と赤の和金は、新しい住処が気に入ったのか、ガラス越しにひらひらと気持ち良さそうに尾ひれを揺らしている。

​「……」
​ 薪は膝を抱えるようにして鉢を覗き込み、静かに泳ぐ金魚を目で追っている。
 風呂上がりの薪のいつものサラサラとした髪がかかるパジャマの衿元が、なぜかとても無防備で、傍らに座る青木の胸に堪らない愛おしさが込み上げた。

​「……薪さん」

​ その声に振り返りもせず、薄暗がりのなか、ガラスの水光を反射する薪の横顔は、吸い込まれそうなほど美しく、どこか切なく甘い。

​「一緒に来ていただいて、本当にありがとうございました。……あなたが姉の浴衣を纏われたのを最初に見たときは、正直、少し胸が苦しかったんですが」

​ 青木は伏し目がちで気恥ずかしさを隠しながらも、ぽつりぽつりと、確かな熱を込めて語り出す。

​「でも、風通しできたのは着物だけじゃなく……心もでした。帰り道、着物と一緒にすっかり馴染んだあなたと舞と、みんなで持ち帰ったお土産を見ていたら……なんだか、姉とみんなの接点まで増えたような、何とも言えない温かい幸せな気持ちになったんです」

​ 金魚鉢の中で、黒と赤の尾ひれがひらひらと、波紋を作って重なっては離れていく。

​「人は死んでからも、こうして新しい思い出が生まれるなんて……不思議ですね」

​ 青木の言葉に、薪は長いまつ毛を微かに震わせ、慈しむように水面を見つめたまま、静かに口を開いた。 

​「そうだな。彼女が、命を……舞を遺してくれたから」

​「ああ、そうか。舞と……この家族が生きている限り、姉との思い出は生まれ続けるんですね。薪さん、舞を愛してくださって、ありがとうございます」

​ それは、ただの感謝ではなかった。
 初めて「贖罪」という十字架が、「幸せ」の微かな光と重なり合ったからこその言葉だ。

​「……別にお前のためじゃない」

​ 榛色の瞳がようやく青木の姿を映す。
 そこに浮かぶのは罪悪感さえ包み込む、不器用でひたむきな愛そのものの色だった。
 舞を愛することは、それを引き受けた青木や家族……そして自分を愛することでもある。
 そんな胸の奥の不思議な想いを口にしない代わりに、青木のパジャマの胸元を掴んだ薪が、そっと唇を寄せてくる。

 触れるだけの、静かな口づけ。

 重なる唇からは、風呂上がりの熱い体温と、とろけるように甘い微かな水分の味がした。

​「薪さん……っ」
​ 大きな手が薪の細い首筋を優しく支えて、口づけが深まっていく。

 パジャマの衿元から立ち上る、薪自身のきめ細やかな肌の甘い匂いに誘われのめり込むように、青木は縺れ合う身体を縁側に静かに倒していく。

​ 誰にも邪魔されない、静まり返った夏の夜。
 目撃者がいるとするなら、ガラスの向こうでひらひらと泳ぐ、赤と黒の三匹の金魚だけだ。
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