五月の残像

​「……じゃあ、お言葉に甘えて」

​ 青木は弾んだ声で囁いた。この“特別な日”の仕上げに、薪が自分を風呂へと誘ってくれた。その事実が、たまらなく嬉しい。
 青木は、とろとろに蕩けたままの薪の身体を、大切に、力強く横抱きにした。

​「なっ……待て、青木! 子ども扱いするなっ」

「いいじゃないですか。今日は子どもの行事なんですから」

​ 真っ赤になって抗議する薪だったが、その力は驚くほど弱く、やがて諦めたように青木の首へ細い腕を回し、身を委ねた。

 腕の中に伝わる確かな重みと、しっとり汗ばんだ肌の熱を噛みしめながら、青木はバスルームへと辿り着く。
 そして先ほどリビングまで漂ってきた、あの清々しい予兆の正体を突き止めるべく、その扉を開けた。

​ 熱い湿気とともに、凛とした鋭い香りが一気に二人を包み込む。

​「……うわっ、すごい香り。これって……」

​ 青木は感嘆の声を漏らしながら、慎重に薪をフロアに下ろした。
 浴槽の中には、丁寧に紐で束ねられた数多の緑の葉――菖蒲と、独特の芳香を放つよもぎが浮かべられていた。水面に揺れる菖蒲の葉は、まるで邪気を払う剣のように美しく、青い香りとともに湯気の中に溶け込んでいる。

​「へぇ……男の子のいる家って、こんなことをするんですね」

​ 感慨深げに呟く青木に支えられ、深い湯船に肩まで浸かった薪が、ふっと長い息を吐いた。

​「お前も青木家期待の男児だったんだろう。実家ではどうしていたんだ」

「うーん、立派な鎧兜を飾ってもらった記憶はあるんですけど、行事的なことは姉のひな祭りの記憶ばかりで。こんな本格的な菖蒲湯、俺、生まれて初めてですよ」

「……そうなのか?」

​ 薪は意外そうに目を丸くしたが、やがて水面に漂っていた菖蒲の葉を一枚、細い指で掬い上げると、根元から丁寧に千切った。

​「じゃあ、これも初めてか」

​ 薪は父・俊の所作を脳裏でなぞりながら、葉を二つ折りにして自身の唇へと寄せる。静まり返ったバスルーム。期待に満ちた青木の視線を浴びながら、薪がふっと息を吹き込むと――

​「……プー、プープー」
​ 少し間抜けた、愛嬌のある音が響いた。

 あまりの落差に青木が思わず吹き出すと、薪も照れくさそうに口端を綻ばせた。

​「……父が、こうして吹いてくれたんだ。今日、あの写真を見るまで、ずっと忘れていたけれど」

​ その言葉は、湯気に溶けて優しく響いた。
 すべて思い出したのだ。
 父が吹いたおかしな笛の音に、かつての自分も笑い転げたことを。あの日、すべてが灰になった瞬間から、薪が封じ込めてきた幼い日の光。

 それが今、青木の持ってきた「記憶の断片」と、この「音色」によって、ようやく薪の胸の中に居場所を見つけて落ち着いたようだった。

​ 風呂上がり。リビングにはまだ飛露喜の芳醇な余韻が漂っている。
 湯冷めしないよう、お互いの髪を乾かし合うドライヤーの音と、時折触れる指先の体温。
 ひと通りの行事を終えた二人は、くたくたになって引き寄せられるようにベッドへと潜り込んだ。


​ 薪の寝息を背中で感じながら、青木は暗い枕元でそっとタブレットを起動した。今日手に入れた写真を、もう一度眺める。

 柏樹未稀子が言っていた「オーラの色」。
 あの日を境に、少年の放つ光は変わってしまったのかもしれない。けれど――

​(オーラの色が変わっても、幸せはどこにも逃げていきませんよ、薪さん)

​ 画面の中で両親に見守られ、壇上に立つ少年の輝いた顔。そして今、青木の隣で安らかな寝息を立てている安らかな寝顔。
 三十数年の空白を飛び越えて、ひと続きの「薪剛」という人生が、青木の中でしっかりと繋がっていた。

 端末を閉じて寝返りを打ち、愛おしい背中に腕を回して目を閉じる。
​ 脂の乗った魚や酒の匂いが混じり合った、あの生々しい生活の混沌は、二人の肌から立ちのぼる清々しい菖蒲の香りに包まれ、すっかり消え去っていた。

​ 今日だけの特別な、どこか懐かしい深緑の香り。
 来年も、再来年も。この香りと共に、新しい記憶を積み重ねていこう。
 青木は心の中でそう誓いながら、愛する人の温もりとともに、深い眠りへと落ちていった。
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