五月の残像

​ ああ、生きている。この人も、俺も。
 青木の五感が、愛おしさで鋭敏に研ぎ澄まされていく。
 薪の瞳を潤ませる涙の熱。脂の乗った生魚の匂い、甘く爽やかな笹の香り、そして贅沢に開けられた日本酒の、芳醇でふくよかな芳香。それらすべてが混じり合い、「生活」という名のひどく生々しく温かな混沌となって二人を取り巻いている。

 かつて、あんなにも死の気配を纏っていた薪を取り巻く、今この瞬間の泥臭いほどに懸命な「生」の匂いが、たまらなく愛おしかった。

​「……薪さん」

​ 青木が呼びかける。タブレットの中で微笑む両親の姿と、目の前で唇を震わせる恋人の姿が、視界の中で重なり、静かに滲んでいく。

 薪は画面を凝視したまま、一言も発することはない。
 ただ、酒の酔いだけでは説明のつかない熱が、その白い肌を烈しく朱に染めていた。

​「カシオペアの宝石、と呼ばれていたんですよね。優しいご両親に見守られて、あなたは確かに深く愛されて……」

「もう黙れ」

​ 俯いた薪の声はひどく掠れ、小刻みに震える手が吸い寄せられるように、ネクタイのない青木の無防備な胸元へと伸びる。

​「過去、過去と……どいつもこいつも、僕の過去ばかりを慈しみ、分析して……! お前まで、そんなものを見て、一体どうしたいんだ!?」

​ 顔を上げた薪の瞳には、こらえきれずに溢れた雫が宝石のような光を宿して零れ落ちていく。薪はテーブル越しに青木の胸ぐらを荒々しく掴んで立ち上がった。震える指先に込められた力が、青木のシャツを無残に引き絞る。

​「写真の中の僕がどれほど幸福だったかなんて、もういい。……そんな記録データじゃなく、今、ここにいる生身の僕を見ろ……っ」

​ 切ない叫びが激しい接吻で塞がれ、薪の華奢な輪郭は、青木の大きな身体に包み込まれるように覆われた。
 二人は互いの唇を貪り合ったまま、縺れるような足取りでリビングのソファへと崩れ落ちる。

​「……薪さん……」

​ 乱れた呼吸の中で青木がシャツを剥くと、そこには昨夜の情事の痕跡が、薄紅色の痣となって点在している。驚くほどの熱を帯びたその身体が、涼やかな美貌とはうらはらに艶めかしくのしかかってくる。

「見たいです……あなたのすべて……」

 青木は自分を組み敷く薪の細い肩を、壊れ物を扱うように、けれど二度と逃がさないよう強く抱き寄せた。

​ 息を吹き返した“こどもの日”のリビング。
 ひしめく生の匂いが、過去の亡霊たちに温かく見守られているような、静謐でいて狂おしい感覚を呼び覚ます。
 二人は「今」という一瞬を互いの肌に刻みつけるように、むせ返るような体温と感触を貪り始めた。

​「……っあ……っ……やめ……ろ……っ」

​ 抗う言葉とは裏腹に、過敏になったそこは、青木の手指による執拗な愛撫に煽られ、淫らにカタチを変えていく。そのまま体勢が反転し、上になった青木の熱い唇に包まれ、慈しむように弄ばれる。
 全身を走る甘い戦慄。
 あえなく上り詰め、達した薪の身体の上に、青木の荒い吐息が重なり零れ落ちてくる。

​「……お前、手加減……してるだろ」

​ 抱きしめられ、とろとろに蕩けた顔を青木の胸元に埋めながら、薪が消え入りそうな声で毒突いた。

​「……いえ、昨夜も激しくしてしまったし。今日は薪さんを、本当に、ただ甘やかしたいんです」

「……ふざけるな……僕だって……お前を……」

​ 語気だけは鋭いが、薪の腰は砕け、指先ひとつ動かせないほどに脱力している。青木はその柔らかな髪を撫でながら、耳元で優しく囁いた。

​「俺も満足ですよ。あんなに可愛く啼く声を、きかせてくれたじゃないですか」

「……っ! 黙れバカっ……」

​ 顔を赤くして沈黙した薪だったが、やがて痺れの残る腕を伸ばして、バスルームのドアを力なく指差した。

​「……風呂だ。入れ。……そろそろ沸いた頃だ」

​ 扉の向こうからは、リビングに満ちた生活の匂いを清めるように――どこか神聖さすら感じさせる、瑞々しい「植物」の香りが、白い湯気と共に漂いはじめていた。
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