五月の残像

 マンションの玄関を開けた瞬間の冷ややかな空気に、青木は震え上がる。
 部屋の時計が指すのは16時15分。
 恐る恐る覗いたリビングでは、薪がソファに深く腰掛け、脚を組んだ姿勢で待ち構えていた。

​「た、ただいま……帰りました」

「その格好でホームセンターか。随分と長い買い物だったな」

​ 氷のような声に、スーツ姿の青木は背筋を凍らせる。
 薪は無言で立ち上がると、青木の懐へ踏み込み、そのネクタイをぐいと引き寄せた。
「……んむっ……」
 突然の口づけ。
 薪の薄い舌が唇の隙間から侵入し、口内を検分するように探って、すぐに離れていく。

​「……香ばしい小麦とバター。そしてベルガモットの柑橘感」

​ 感情を削ぎ落とした呟き。唇を手の甲で拭いながら、薪は薄く笑った。

​「どこのホームセンターに、そんな洒落た喫茶店が併設されているんだ? 言ってみろ」

「あ、あの……! 本棚、直してきますっ!」

​ このままでは“取り調べ”が始まってしまう。青木は脱兎のごとく書斎へ逃げ込み、買ってきたばかりの金具を手に本棚へ向かった。
 実際には大した緩みもなかったが、青木は必死に時間をかけ、“修理”という名の贖罪に没頭した。

​ 17時。ようやくリビングへ戻った青木は、また恐る恐る口を開いた。

​「本棚、直りました。……あの、夕飯の準備ができなかったので、どこか外にでも……」

​ 言いかけた青木は、言葉を失った。ダイニングテーブルに、色鮮やかな刺身が並んでいたからだ。
 脂の乗ったブリの白に、瑞々しいカツオの赤。

​「え、これ……薪さんが?」

「お前が長・い・間、家を空けている間に、僕も買い物に行ってきたんだ」

​ 含みのある言い方にゾッとしながらも、青木は吸い寄せられるようにテーブルへ近づく。

​「ありがとうございます……今日の夕食ですか?」

「そうだ。何か文句があるのか?」

​ 薪はそう言いながら、棚の奥から持ってきた日本酒のボトルをテーブルに置いた。
 幻の酒と名高い『飛露喜(ひろき)』の純米大吟醸。
 皿の上には、笹の葉に包まれた「ちまき」も誇らしげに並んでいる。

​「野菜が足りないだの塩分が多いだの、休日は気にしなくていいと言ったのは、お前だったな」

「ええ……それは、もう……」

​ ブリにカツオ。どれも立派な「出世魚」だ。
 この超然とした上司が、スーパーの混雑の中、あの大柄な柵の刺身を選び、笹の香りに誘われてちまきを手に取る姿――

​(……俺との時間を過ごすために、これを選んでくれたんだ)
​ その光景を想像しただけで、青木の瞼がじわりと熱くなった。

​「薪さん、これ……もしかして、こどもの日の行事食のつもり、ですか?」

「……うるさい。いいから座れ。呑むぞ」

​ 薪は俯き加減でぶっきらぼうに言い放ったが、その耳の端が僅かに赤らんでいるのを、青木は見逃さなかった。
​ 紅白の出世魚に、ちまき。それも勿論うれしいが、あえてこのタイミングで「飛露喜」の純米大吟醸を開けるなんて。
 青木は震える手で猪口を持ち上げた。
 この銘柄がどれほどの価値を持つか、門外漢の青木にだって痛いほどわかる。
 薪はそれを「当然の備え」だと言わんばかりの顔で、青木の猪口に透明な滴を注いだ。

​ 芳醇な米の旨味と、突き抜けるような清涼感。
 脂の乗った刺身を酒で流し込むと、薪の頬にも僅かに赤みが差し、張り詰めていた空気がふわりと解けていった。

​ この温かな酔いの中なら、きっと届く。

 青木は立ち上がり、リュックから取り出したタブレットを操作して差し出した。

​「……薪さん、見てください。これは今日、俺が見つけてきたものです」

​ 怪訝そうに画面を覗き込んだ薪の目が、驚きのあまり見開かれる。
 そこに映し出されていたのは、表彰式の壇上にいる少年――あどけない、けれど今と同じ凛とした眉目を持つ、少年時代の薪剛だった。

​「これ……は……」

​ 薪の指が、震えながら画面をなぞる。青木の指が向かい側から背景を大きく拡大した。
 画面の端、観客席の最前列に座した二人の人物。
 端正な顔立ちに穏やかな知性を湛えた父・俊。その隣で、祈るように両手を組み、目を潤ませる母・琴海。
 望遠レンズの圧縮効果が、壇上の息子と見守る両親の距離を、まるで抱擁しているかのように等しく映し出していた。
​ 俊の視線は真っ直ぐに息子の背中を支え、琴海の唇は、今にも「剛くん、おめでとう」と零れ出しそうなほど綻んでいる。

​「柏樹未稀子先生が持っていたんです。遠近はありますが、これ……『三人の家族写真』なんじゃないかな、と」

​ 吸い込まれんばかりに画面を凝視する薪の肩に、青木がそっと手を置いた。

​「薪さん。あなたの世界は焼き尽くされてなんかいません。こうして、ちゃんと残ってる。この画像も、あなたが今日ブリやカツオを選んでくれた時間とかも……大切な人を思う気持ちは、誰にも奪えないと思うんです」

​「……」
​ 薪は言葉を失ったまま、三十数年ぶりに再会した両親の画に、深く引き込まれていた。
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