五月の残像
祝日の大学キャンパスは学生の姿もまばらで、のどかな空気に包まれていた。
青木は研究棟の入り口にある案内板を指でなぞり、目的のラボがある階を確認する。
エレベーターを降りた先に伸びる廊下は、外界の喧騒から切り離されたような、無機質な静寂に満ちていた。
40分ほど待っただろうか。その廊下の向こうから、軽やかなヒールの足音が近づいてくる。
「あら……あなたは?」
立ち止まったのは、品の良いジャケットを纏った知的な面差しの中年女性だった。
青木がつい先程、Web上で目にしたばかりの顔――柏樹未稀子。かつての「聖カシオペア・アカデミー」理事長であり、脳科学と発達心理学の権威だ。
「突然の訪問、失礼いたします。科学警察研究所、法医第九研究室の青木と申します」
青木は居住まいを正し、警察手帳を差し出した。
「ああ、あの『脳』の……」
未稀子の瞳がぱっと輝いた。
「はい。私の直属の上司は、薪剛です。かつて、聖カシオペア・アカデミーの……」
「卒業生よね。覚えているわ。あんなに崇高な光を放っていた子は、後にも先にも彼だけだもの」
あまりにも迷いのない肯定に、青木は一瞬言葉を失う。未稀子もまた、遠い過去をなぞるように視線を彷徨わせ、しばしの沈黙が流れた。
気づけば、彼女の手によってラボの扉が開かれている。
「どうぞ、入って。立ち話も何でしょう?」
「……ありがとうございます。お忙しいところを、恐縮です」
「あら、警察の方なんてノーアポが基本でしょ?」
未稀子は茶目っ気たっぷりに片目を細めて見せた。その軽やかな切り返しに、青木は「薪さんと波長が合いそうな人だ」と直感した。
案内された研究室内は、洗練されたアート空間のようだった。最新の機材やモニターが並ぶ壁の隙間には、計算され尽くしたように美しい絵画が飾られ、窓辺の植物は瑞々しい緑を湛えている。
「座って。今、美味しい紅茶を淹れるわね」
「いえ、あのお構いなく……」
「早いけど、私さっき行きつけのお店でランチを済ませてきたのよ。食後のお茶に付き合って頂戴」
彼女は手際よくティーセットを用意し始めた。磁器が触れ合う澄んだ音とともに、華やかなアールグレイの香りが部屋を満たしていく。
「どう? 私のラボは」
「ええ、最先端なのにどこか懐かしくて、とても均整が取れている……そんな印象です」
未稀子は満足げに頷いた。
「そう。見ての通り、私は美しいものが好きなの。機能美も、造形美もね。……薪剛くんは、何をさせても完璧だった。学問も、精神も、所作も。本当にすべてが美しい子だったわ」
未稀子はティーカップを青木の前に置き、自身も対面に腰を下ろした。
「それで? その『美しい子』の部下であるあなたが、休日にわざわざ私を訪ねてきた理由は……単なる近況報告ではないわね」
青木は温かいカップを両手で包み、ベルガモットの香りを深く吸い込んだ。
未稀子の瞳の奥には、薪を一人の稀有な存在として慈しんできた者の色が宿っている。
青木はカップを持ち上げたまま、ふと気になっていたことを問いかけた。
「……あの、一つ伺ってもいいですか。先生が研究室の前で考え事をされていたのは、どんなことを……」
未稀子は一瞬驚いた顔をしたが、ソーサーの上でカップを僅かに傾け、意味深な微笑を浮かべた。
「それは、あなたが今日ここを訪ねてきた理由と同じかもしれないわね」
彼女は椅子の背に身を預け、言葉を継いだ。
「あの子のオーラの色が変わってしまったあの日 ことを、思い出してたの」
ハッとして、青木は身を乗り出す。
「薪さんがご両親を亡くされた日のことですか?」
「ええ。その後、後見人の方も愛情深い方だったし、剛くんも彼なりに新しい生活に馴染んでいったけれど……」
未稀子の瞳が、悲しげに細められた。
「やりきれない孤独と、それを背負って立つ強さ……今日、あなたを見て、当時の剛くんのオーラの色を思い出したのよ」
未稀子は立ち上がると、ラボの奥にある、クリスタルを配した無機質な装置へと青木を促した。
「あなたはご自身のオーラの色、見たことある?」
「いえ、そういうものは……」
「やってみて。スピリチュアルな話ではないの。脳の共感覚を可視化する試作装置よ。このプリズムの中に手をかざすだけだから」
青木が装置の前へ座り、大きな手を差し入れる。柔らかな光が走り、青木の肌の上に鮮やかな色彩が浮かび上がった。
「一色だけ、肌に映ると消える色。それがあなたのオーラ――本来の気質というわけ」
「なるほど……」
青木は自分の掌をじっと見つめ、それから真摯な表情で未稀子を仰ぎ見た。
「この判定は、画像でもできますか? あの日以前の薪さんが、どんな色をしていたのか。先生がお持ちのデータで見せていただくことは可能でしょうか」
その問いに、未稀子は愉しげに目を細めた。
「ふふ、いい質問ね。いろんな意味で」
彼女はまるで魔法の鍵でも取り出すように、机の上の端末を引き寄せた。
「あなたが今日、本当は何を求めてここへ来たのか……白状させる手間が省けたわ」
手際よく端末を操作しながら、未稀子は続ける。
「これ。私がとても好きな写真なの。当時のアカデミー記念誌のために撮影された、未公開の連写 ショット。そこに、あなたに見てほしい『光』があるわ」
差し出されたタブレットの中で、解析アプリを介して開いたさっきの静止画がゆっくりと拡大されていく。
そこには表彰式の壇上で、まだあどけなさの残る薪剛少年が、誇らしげに賞状を受け取っている姿があった。
「このオーラ解析結果を見て。剛くんの青白く澄んだオーラ。そして、彼を見守る暖色が重なり合って、一つの温かな繭のようでしょう?」
青木は息を呑んだ。
画面の端、小さな領域に宿っていた「彼を見守る暖色」。それは今の薪が「失われた」と信じ込んでいる、世界の優しさそのものだったから。
「これ、を……持ち帰ってもいいですか」
「ええ、もちろん。複製してあげる」
結局、青木は未稀子お手製のスコーンまでご馳走になり、尽きることのない思い出話につきあった。
五月の風が、並木道を心地よく揺らしている。
溢れるほどの「収穫」を胸に抱き、薪のマンションに青木が帰り着いたのは、十六時を回る頃だった。
青木は研究棟の入り口にある案内板を指でなぞり、目的のラボがある階を確認する。
エレベーターを降りた先に伸びる廊下は、外界の喧騒から切り離されたような、無機質な静寂に満ちていた。
40分ほど待っただろうか。その廊下の向こうから、軽やかなヒールの足音が近づいてくる。
「あら……あなたは?」
立ち止まったのは、品の良いジャケットを纏った知的な面差しの中年女性だった。
青木がつい先程、Web上で目にしたばかりの顔――柏樹未稀子。かつての「聖カシオペア・アカデミー」理事長であり、脳科学と発達心理学の権威だ。
「突然の訪問、失礼いたします。科学警察研究所、法医第九研究室の青木と申します」
青木は居住まいを正し、警察手帳を差し出した。
「ああ、あの『脳』の……」
未稀子の瞳がぱっと輝いた。
「はい。私の直属の上司は、薪剛です。かつて、聖カシオペア・アカデミーの……」
「卒業生よね。覚えているわ。あんなに崇高な光を放っていた子は、後にも先にも彼だけだもの」
あまりにも迷いのない肯定に、青木は一瞬言葉を失う。未稀子もまた、遠い過去をなぞるように視線を彷徨わせ、しばしの沈黙が流れた。
気づけば、彼女の手によってラボの扉が開かれている。
「どうぞ、入って。立ち話も何でしょう?」
「……ありがとうございます。お忙しいところを、恐縮です」
「あら、警察の方なんてノーアポが基本でしょ?」
未稀子は茶目っ気たっぷりに片目を細めて見せた。その軽やかな切り返しに、青木は「薪さんと波長が合いそうな人だ」と直感した。
案内された研究室内は、洗練されたアート空間のようだった。最新の機材やモニターが並ぶ壁の隙間には、計算され尽くしたように美しい絵画が飾られ、窓辺の植物は瑞々しい緑を湛えている。
「座って。今、美味しい紅茶を淹れるわね」
「いえ、あのお構いなく……」
「早いけど、私さっき行きつけのお店でランチを済ませてきたのよ。食後のお茶に付き合って頂戴」
彼女は手際よくティーセットを用意し始めた。磁器が触れ合う澄んだ音とともに、華やかなアールグレイの香りが部屋を満たしていく。
「どう? 私のラボは」
「ええ、最先端なのにどこか懐かしくて、とても均整が取れている……そんな印象です」
未稀子は満足げに頷いた。
「そう。見ての通り、私は美しいものが好きなの。機能美も、造形美もね。……薪剛くんは、何をさせても完璧だった。学問も、精神も、所作も。本当にすべてが美しい子だったわ」
未稀子はティーカップを青木の前に置き、自身も対面に腰を下ろした。
「それで? その『美しい子』の部下であるあなたが、休日にわざわざ私を訪ねてきた理由は……単なる近況報告ではないわね」
青木は温かいカップを両手で包み、ベルガモットの香りを深く吸い込んだ。
未稀子の瞳の奥には、薪を一人の稀有な存在として慈しんできた者の色が宿っている。
青木はカップを持ち上げたまま、ふと気になっていたことを問いかけた。
「……あの、一つ伺ってもいいですか。先生が研究室の前で考え事をされていたのは、どんなことを……」
未稀子は一瞬驚いた顔をしたが、ソーサーの上でカップを僅かに傾け、意味深な微笑を浮かべた。
「それは、あなたが今日ここを訪ねてきた理由と同じかもしれないわね」
彼女は椅子の背に身を預け、言葉を継いだ。
「あの子のオーラの色が変わってしまった
ハッとして、青木は身を乗り出す。
「薪さんがご両親を亡くされた日のことですか?」
「ええ。その後、後見人の方も愛情深い方だったし、剛くんも彼なりに新しい生活に馴染んでいったけれど……」
未稀子の瞳が、悲しげに細められた。
「やりきれない孤独と、それを背負って立つ強さ……今日、あなたを見て、当時の剛くんのオーラの色を思い出したのよ」
未稀子は立ち上がると、ラボの奥にある、クリスタルを配した無機質な装置へと青木を促した。
「あなたはご自身のオーラの色、見たことある?」
「いえ、そういうものは……」
「やってみて。スピリチュアルな話ではないの。脳の共感覚を可視化する試作装置よ。このプリズムの中に手をかざすだけだから」
青木が装置の前へ座り、大きな手を差し入れる。柔らかな光が走り、青木の肌の上に鮮やかな色彩が浮かび上がった。
「一色だけ、肌に映ると消える色。それがあなたのオーラ――本来の気質というわけ」
「なるほど……」
青木は自分の掌をじっと見つめ、それから真摯な表情で未稀子を仰ぎ見た。
「この判定は、画像でもできますか? あの日以前の薪さんが、どんな色をしていたのか。先生がお持ちのデータで見せていただくことは可能でしょうか」
その問いに、未稀子は愉しげに目を細めた。
「ふふ、いい質問ね。いろんな意味で」
彼女はまるで魔法の鍵でも取り出すように、机の上の端末を引き寄せた。
「あなたが今日、本当は何を求めてここへ来たのか……白状させる手間が省けたわ」
手際よく端末を操作しながら、未稀子は続ける。
「これ。私がとても好きな写真なの。当時のアカデミー記念誌のために撮影された、未公開の
差し出されたタブレットの中で、解析アプリを介して開いたさっきの静止画がゆっくりと拡大されていく。
そこには表彰式の壇上で、まだあどけなさの残る薪剛少年が、誇らしげに賞状を受け取っている姿があった。
「このオーラ解析結果を見て。剛くんの青白く澄んだオーラ。そして、彼を見守る暖色が重なり合って、一つの温かな繭のようでしょう?」
青木は息を呑んだ。
画面の端、小さな領域に宿っていた「彼を見守る暖色」。それは今の薪が「失われた」と信じ込んでいる、世界の優しさそのものだったから。
「これ、を……持ち帰ってもいいですか」
「ええ、もちろん。複製してあげる」
結局、青木は未稀子お手製のスコーンまでご馳走になり、尽きることのない思い出話につきあった。
五月の風が、並木道を心地よく揺らしている。
溢れるほどの「収穫」を胸に抱き、薪のマンションに青木が帰り着いたのは、十六時を回る頃だった。