五月の残像

 シャワーの音が止み、リビングに戻ってきた薪の頬が、無意識のうちにふっと緩んだ。

​ テーブルには、薪の好みに合わせて淹れられた濃いめのコーヒー。そして、その香りに寄り添うように並ぶ、バナナの豆乳ポリッジ。
 バターで軽くソテーされ、シナモンを纏ったバナナ――それは、薪が密かに愛してやまない、好み“ど真ん中”の献立だった。

​「なんの機嫌伺いだ?」

​ バスローブの襟元を整えながら、薪が緩んだ顔の眉だけ皺を寄せる。
 いつもなら「野菜を摂ってください」「健康第一ですよ」とうるさく小言を並べるくせに、今朝のメニューは甘やかしすぎだ。
 薪は椅子を引きながら、その裏にある“何か”を敏感に察知していた。

​「休日の特別感があって良くないですか? さあ、冷めないうちにどうぞ」

「……ふーん」
​ 薪は促されるまま席に着いたが、その榛色の瞳は、訝しげに青木を観察し続けている。

 温かいポリッジを一口、そしてコーヒーを一口。
 至福の味わいを愉しみながらも、薪はカップを置くと低い声で問いかけた。

​「……お前、何か企んでいるだろう」

「えっ!? な、なんのことですか」

​ 青木の心臓が跳ねる音が、手に取るようにわかる。
 薪の視線は、まるで脳内を映し出すスキャナーのように、青木のわずかな動揺を精緻に読み取っていた。

​「お前が妙に張り切っている時は、碌なことがない。何を考えているか正直に言え」

​ 逃げ切れない。青木はポリッジの器をスプーンで突きながら、咄嗟に口実を捻り出した。

​「……あの、薪さんの書斎の本棚、金具が緩んでたじゃないですか。せっかくの連休だし、今日こそちゃんと修理しようと思って。工具箱を確認したら足りないパーツがあったので、今からちょっとホームセンターまで買い出しに行ってきます」

「本棚……?」

​ 薪は拍子抜けしたように瞬きをした。自分の聖域である書斎のことを引き合いに出されると、無碍にはできない。

​「ああ……それなら、ついでにキャビネットの建て付けも見ておけ。勝手に配置を変えるなよ」

「はい、もちろんです。すぐ戻りますから、ゆっくりしててくださいね!」

​ 青木は飲みかけのコーヒーを一気に煽ると、いそいそと食卓を離れて支度を始める。

 あっという間に着替えて出ていく後ろ姿が玄関のドアの向こうに消えると、静まり返ったリビングに一人、薪が取り残された。

​ 薪はまだ温かいポリッジを口に運びながら、カウンターに置き去りにされたノートPCに視線を走らせる。

​「金具、か……」

​ 本棚の弛みも嘘ではないのだろう。だが、今の青木の様子はそれだけではない。
 ただの修理以上の熱意――何か“大事な探し物”をするような切実さがあった。あれは?

​ 食後の皿を片付けた薪は、カウンターに置かれたノートPCの前へ立つ。
 電源は切れているが、触れると微かな熱が指先に伝わった。青木がさっきまで、熱心にこれを使用していた証拠だ。
 薪は迷うことなく、自身のIDとパスワードを打ち込んだ。青木の業務用端末だが、この部屋の主として、部下の浅はかな隠し事を見逃すほどお人好しではない。

​ 上司権限で開示された青木のログには、意外な検索履歴が並んでいた。

​『聖カシオペア・アカデミー』
『柏樹啓一郎 現在』
『柏樹未稀子 研究室 祝日』

​ 薪の眉がピクリと動き、画面をスクロールする指が止まる。

 オープンWebと内部データベースを使い分けた、公私混同スレスレの“捜査”。
 かつての自分の、光も闇も知っているあの母校。そして、それに関わる人物たちの現在の足取り。これをあいつは自分がシャワーを浴びているあの短時間で調べ上げたというのか。

​「……馬鹿が。無い頭はせめて本業に使え」
​ 呆れたような、吐息混じりの呟きが漏れた。

 暗転した画面を見つめる薪の瞳に、今朝、バスルームの鏡に映った自分の、言いようのない空虚な表情が浮かぶ。
 五月五日という日付が突きつけてくる、逃れられない喪失の記憶。
 それをまともに抱えていた自分の虚無感を、隣にいたあの青木が、見過ごすはずがなかったのだ。

​ 本来なら「余計な真似をするな」と一喝すべきところだろう。
 他人に過去を暴かれることを何より嫌う薪にとって、これは暴挙に他ならない。
 けれど。
 胸の奥に灯ったのは苛立ちではなく、もっと静かで温かな――気恥ずかしさを伴った肯定感だった。

​ 不思議と、悪い気はしない。

​ 薪はソファに深く腰掛け、窓から差し込む五月の強い陽光に目を細めた。

 あの日から、自分にとって「こどもの日」は祝い事などではない、ただの命日だった。
 けれど今の自分には、勝手に他人の過去を調べ、何も知らないくせにジタバタしている、愚かで愛おしい恋人がいる。

​「……勝手な奴だ、本当にお前は」

​ 薪は膝の上で結んでいた指を、ゆっくりと解いた。

 青木が何を探しにいったのかはわからない。けれど、あいつが必死に手繰り寄せようとしているものを、受け止めるだけの心積もりは、ほんの少しでも整えておこうと思う。

​ 薪は立ち上がると寝室の窓を開け放ち、二人が昨夜脱ぎ捨てたままにしていた服を拾い集めて、洗濯機へと放り込んだ。
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