五月の残像

​ 防音の行き届いた高層マンションの一室。
 外界の喧騒は厚いガラスに遮られ、寝室には昨夜の熱情が澱のように沈殿した、甘く重い静寂だけが漂っている。

 もう朝だということは、身体に伝わる薄い光の気配でわかっていた。
 青木は、重い瞼をゆっくりと押し上げる。

​「……う〜ん」

​ 大きく伸びをしながらシーツの摩擦に柔らかな肌の熱を感じて視線を移せば、傍らに自分より二回りほど小さな白く細い背中を見つけて目を細める。
 昨夜、溺れるように求め合った痕跡が、うっすらと赤く残る白い肌。
 いつもなら背中から腕を回して二度寝を決め込むところだが、青木はふと動きを止めて目を凝らした。

​(薪さん……起きてる?)

​ そう、薪は眠ってはいなかった。
 仰向けのまま、微動だにせず天井の一点を見つめている。その瞳は、何かを追っているようでいて、どこか遠い異界を彷徨っているようにも見えた。

​ 五月五日。
 世間では端午の節句、子供の健やかな成長を祝う休日だ。しかし、この人にとってはそうじゃない。
 付き合いが長くなるにつれ、青木はそのことを痛いほど理解しはじめていた。
 三十余年前の今日、薪剛という一人の少年の幸せな世界が、一瞬にして焼き尽くされた……大事な家族の命日なのだ。

​「薪さん」

​ 青木が低い声で呼ぶと、薪の長い睫毛が微かに揺れた。

​「なんだ……起きていたのか」

「ええ……よく眠れましたか?」

「……さあな。お前が、重かったことしか覚えていない」

​ いつもの冷徹な口調。でもその声には湿った影が張り付いている。
 薪はゆっくりと身を起こすと、枕元に置かれたスナップ写真――縁の焼けた父と母の遺影に一瞬だけ視線を落として、深い息を吐いた。

​「シャワーを浴びるから、コーヒーでも淹れておけ。いつまでもお前の顔を眺めて過ごすほど、僕は暇じゃない」

​ 突き放すような言葉。
 けれど、その肩先がわずかに震えているのを、青木は見逃さなかった。

​「え、待ってください」
​ 薪がベッドを離れようとした瞬間、青木はその細い手首を捕まえ、再び柔らかなマットレスの上へと引き戻した。

​「なっ……何をする!?」

「いいじゃないですか、今日は休みなんだし。ね、薪さん」
​ 驚いて目を見開く薪の胸元に、青木はわざと体重を預けて耳を寄せる。二回りも大きな青木の熱い肉体は、薪にとってこの世で唯一抗いがたい重力だった。

​「……どけ。重いと言っているだろう」

「嫌です。俺の気の済むまで、こうして薪さんの心音を聞いてますから」

「何を子どもじみたこと……っ、離せ!」

​ 暴れる薪の拍動が、トク、トクと青木の耳にダイレクトに響く。
 青木はそのままの体勢であえて明るく、悪戯っぽいトーンで切り出した。

​「子ども、といえば……前から気になってたんですけど。薪さんって、普通のランドセル背負って集団登校する姿が、どうも想像できないんですよね。やっぱり、特別な英才教育とか受けてたんですか?……あ、今鼓動が早まった」

​「……っ!」

 薪は身体を強張らせ、図星を突かれた時の特有の沈黙が訪れる。青木はそれを逃さず、さらに耳を押しつける。
 逃れられないと悟ったのか、薪の深く、重い溜息が聞こえた。

​「……お前に話すようなことは、何もないと言ったはずだ」

「ええっ、教えてくださいよ。俺、薪さんのことなら、一ミリだって余さず知っておきたいんですから。……ね?」

​ 青木が顔を上げ、至近距離でその顔を覗き込む。
 薪は苦々しげに唇を噛んだが、やがて逸らしていた視線をゆっくりと青木に戻した。

​「……義務教育の間は、国立の特殊校に通ってた。高校はスキップして京大へ。それだけだ」

「特殊校って……どんな? 名前を教えてくださいよ」

「聖カシオペア・アカデミー。今は潰れてもうないがな」

​ その響きは、薪剛という男の出自に相応しい、カリスマ的な潔癖さを纏っていた。

​「……これで満足か。さっさと退け、バカ青木」

​ 薪の手が、青木の頭を乱暴に、拒絶しきれない熱を振り払うように押し退ける。

​「はい、満足です。シャワーですね、行ってらっしゃい」

​ 青木が手際よく手渡したローブを受け取り、薪の姿がバスルームへ消えていった。

 それを見届けた青木はキッチンでコーヒーメーカーをセットすると、カウンターでノートPCを開く。
 本来なら非番の朝に開くべきではない、職務用の高セキュリティ・ブラウザ。
 今の青木を突き動かしているのは、捜査員としての義務感ではなく、一人の男としての切実な渇望だった。

​(聖カシオペア・アカデミー……)

​ 検索ウィンドウにその名を打ち込む。薪の言葉通り、公式な学校法人としての記録は十数年前から途絶えていた。しかし、膨大なデータの海には、消しきれない過去の断片が今も漂っている。

 キッチンではコーヒーメーカーがコポコポと小気味よい音を立て、芳醇な香りが広がり始めていた。

​「創始者、柏樹啓一郎……。当時の理事長は、妻の未稀子か」
​ シャワーの音にかき消されるような低い声で、青木は独り言を漏らした。

 啓一郎はその後、英才教育を塾形式に転換して業界大手にのし上がり、今やその名を知らぬ者はいない。 
 一方、アカデミーの理念を引き継いだ未稀子は、現在も一橋大学に自身のラボを構え、教育研究の第一線に立ち続けている。

​「……会えるかもしれない」
​ 確信を込めて呟いた青木の口元に、期待に満ちた笑みが浮かぶ。

 五月五日、こどもの日。
 父も母もいた幼い日の「薪剛」の欠片を探したい――という、ただそれだけの思いつき。

 “記憶の残像を探しに”
 そんな決意を胸に秘め、青木は手際よく二人分の朝食の準備を進めた。
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