春の或る日のマリアージュ

「あ……」

​ 翌朝。早起きのおバアちゃんが散歩に出かけた後の、静かな洗面所で二人は鉢合わせた。

 鏡越しに視線がぶつかった瞬間、昨夜のダイニングテーブルでの艶めかしい“試食”の記憶が一気に蘇り、二人の頬が同時に朱に染まった。

​「……薪さん、おはようございます。……あの、昨夜は、その、食卓であんなこと……すみませんでした」

​ 耳まで赤くして小声で謝る青木の顔を、薪は潤んだ瞳で見上げ、少し掠れた声で応えた。

​「……謝るな。感覚が研ぎ澄まされた気がする。おかげでメニュー案の微調整も、これで完了だ」

​(な、なんてお可愛らしい……)

​ あんなに夢中で溺れた官能的な経験すらも、即座に「解析」のデータとして脳内フォルダに格納してしまう薪のストイックな回答に、青木は苦笑する。そして薪の瞳に宿る静かな充足感を見届けながら、愛おしさで胸を熱くした。


​ お昼前になると、オバアちゃんと舞が孫連れのご近所さんとランチに出かけようとしている。
 予定通りだ。
 それを見送ると直ぐ様二人はいそいそと地元のショッピングモールへと車を走らせた。

 薪は特売品のチラシが躍るスーパーのコーナーには目もくれず、地元の漁師や農家が直接品を持ち込む産直コーナーへと迷わず足を進める。

​「見ろ、青木。この帆立……エッジの立ち方がいい」

​ 水槽の前に屈み込み、まるで宝石を鑑定するような鋭い眼差しで食材を見極める薪。
 その横顔はもはや、愛する家族に捧げる“最高の一皿”を追求する求道者そのものだ。

​「プランクトンが豊富な有明の恵みを、細胞の一つ一つが蓄えている証拠。これなら、僕の計算した温度域での加熱にも、充分耐えうるだろう」

​「は、はあ……。帆立も薪さんにそんなに見つめられたら、緊張して殻を閉じちゃいそうですね」

​ 冗談めかして笑う青木を横目に、薪は次の食材を求めて野菜コーナーへとスタスタ歩いていく。
 地元の主婦や家族連れで賑わう喧騒の中、上質なネイビーのカーディガンを纏った薪のノーブルな美貌は、そこだけ空気が研ぎ澄まされているように美しい。

 山菜の繊細な産毛まで厳選するその指先が、昨夜は自分を求めて震えていたのだと思うと、青木は不意に堪えがたい独占欲に襲われる。

​「薪さん……」

 たまらずその肩に触れようとした青木の動きを止めたのは、薪が手に取って差し出した、小さな蕗の芽だった。

​「青木、これを見ろ。きれいな黄緑、ハカマが短く、この丸み……理想的だ。母上が以前、蕗の芽は春の解毒剤だと言っていただろう。舞ちゃんの口に合うよう苦味は抑えつつ、あの人が好む歯ごたえと爽やかさを、コロッケの隠し味にするのはどうだろうか」
​ 
 食事を口にした母や舞の顔を思い浮かべたのだろうか。食材を見つめる薪の厳しい表情が、ふと一瞬だけ笑むように和らいだ。

 見つめる青木は、自分の浅ましい欲望が、薪の無垢な優しさに触れて、急速に浄化されていくのを感じていた。

​(この人は、俺の大切なものを、自分の一部みたいに大切にしようとしてくれているんだな……)

​ 本人の自覚はさておき、今の薪は“青木の母”のため、つまり“家族”のために、その類まれなる頭脳と五感をフル回転させているのがひしひしと伝わってくる。それがたまらなく幸せだった。

​「薪さん……ありがとうございます」

​「ん? 何だ、急にかしこまって。それより、お前の家にホワイトペッパーはあっただろうか」

「テーブル胡椒はありますが……あれはたしか白と黒がブレンドされてるような……」

「黒胡椒が混じると粒子が目立ちすぎる。帆立の純白を濁らせるわけにはいかないからな。ソースの視覚的純度を保つには、白胡椒が不可欠だ」

​ 料理人顔負けの薪のストイックな美学。

「じゃあ次は調味料だな」と再び歩き出す薪の背中を、青木は幸せな気持ちで追いかけた。
 愛情いっぱいの視点で厳選された食材がカゴを重くしていくのは、二人……もしくは家族の“愛のかたち”そのもののように思えた。
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