春の或る日のマリアージュ

 休日の午後。薪のマンションのキッチンからは、柔らかでいて力強い、不思議な香りが漂っていた。

 温かな湿度とともに部屋を包み込むのは、磯の匂いと、芳醇な燻製香。

​ 立ち上る白い湯気の向こうには、几帳面な手つきで煮立った鍋から灰汁あくを掬い取っている大男の姿勢のいい背中がある。

 薪はリビングのソファから、その光景をぼんやりと眺めていた。

​ 青木の作る料理は、どれも素朴で飾り気がない。 
 けれど、一口含めば細胞の隅々までが喜ぶような、深い滋味がある。
 基本に忠実で、決して手を抜かない。そして何より、愛情という数値化できない隠し味が、この男の引く「出汁」には凝縮されている気がする。

​(青木家の厨房と食卓が、この男の健全な心身を作り上げたのだな)

​ ふと、そんな納得が胸に落ちた。
 その源流である「青木の母」への敬意。それと同時に、薪の中に僅かな好奇心と、奇妙な挑戦意欲が芽生え始める――

​「……青木」

「はい、薪さん、味見ですか?」

​ 屈託のない笑顔で振り返った青木に、薪は今、心を揺さぶっている想いをそのまま口にした。

​「来週、福岡へ行こうと思う」

「ええ、それはもう。いつでもどうぞ」

​ 自然な流れで受け止める青木。だが、薪の意図は単なる恋人の住まいへの訪問ではなかった。

​「母の日を、お前の実家で祝わないか? 日頃お世話になっている母上に、お前と僕で、夕食を作って差し上げたいんだが……」

「えっ……」
​ 青木の目が、驚きと喜びで見開かれた。
​「薪さんが、母の日の夕食を……!?  それは、母さんも舞も、めちゃくちゃ喜ぶと思います!」
​ 高揚して顔を輝かせる青木。
 だが、ふと思い出したように、少しだけ眉を下げて困ったように笑った。

​「あ、でも……うちの母さん、ああ見えて料理に関しては結構こだわりが強いというか。外食しても滅多に『美味しい』って言わないんですよ。自分の味に信念がありすぎて、ちょっと文句が多かったりして……」

​ 薪の申し出を無下にしないよう、言葉を選んで気遣う青木だが、薪は全く動じる様子もない。

​「母上の腕前は僕だってよく存じ上げている。あれほどの料理を家族に食べさせてきたんだ。舌が肥えていて当然だろう」

​ 薪はそう言って、不敵な笑みを浮かべ青木を見据えた。

​「要するに……その舌を、超えるものを作ればいいんだろう?」

「え、超える……って……」

​ 簡単に言いますけど、あなたは普段料理なんてしないし、小鳥くらいしか食べないくせに……と、言いかけた小言を、青木は喉の奥で呑み込んだ。
 薪の榛色の瞳の奥に秘められた、向こう意気の強い“本気”。それは、かつて数々の難事件を解決に導いてきた時と同じ、鋭い光を放っていたからだ。

​(まさか、料理にまで……)

​ 呆気にとられつつも、青木はその無謀で愛おしい宣戦布告に、胸の奥が熱くなるのを感じた。

​「……分かりました。やりましょう。俺、薪さんの挑戦に全力でついていきます!」

​ こうして、福岡の実家を舞台にした“最高の一皿”への挑戦が、唐突に幕を開けたのだった。
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