SACRIFICE〜鏡の中の生贄

 住み馴れたはずの自宅が、今は見知らぬ場所のように感じる。
​ 重厚なドアが閉まり、電子錠がカチリと音を立てて閉まった。

 無機質なダウンライトに照らされたリビングを、浮遊感に身を任せて横切っていく自分は、大男の首根っこにしがみつき、ただ温かい腕に身を預け“生の拍動”を全身で感じ取っている……ちっぽけな、守られた存在に思えた。

​(……青木が僕の部屋にいる……)
​ 
 ソファへ下ろされた瞬間、上質なレザーの感触さえもが、どこか遠い世界の出来事のように柔らかく擽ったいものに感じる。

​ 視線を上げれば、自分を見つめる青木の感極まった面持ちがある。
 萌絵果の憎悪も、三神の歪んだ献身も、この男の放つ圧倒的な熱量に触れれば瞬時に雲散するだろう。
 もっと、呑まれたい……この男の、鬱陶しいほどの生命力に。
 
​「……薪さん。せっかくお綺麗なんですが、まずお化粧を落としましょうか」

 青木は洗面台にある、昨日使ったままのクレンジングと、タオルを手にとった。
 そして、無惨に引き裂かれた黒いドレスに目をやり、眉をひそめて踵を返す。

​「そうだ……着替えも。薪さん、どこにありますか?寝着か、何か……」

​ 青木の問いに、薪は奥の寝室を顎で指す。

「……クローゼット、開けて左側にローブがある」

​ 青木は言われるままに寝室へ向かい、整然と並んだ衣服の中から、深い紺色の柔らかなローブを手に取った。

 
​「よせ……自分でやる」

​ ソファの前に膝をつき、クレンジングをたっぷり含ませたコットンをもつ青木の手を、力なく振り払おうとして空を切るしなやかな手。

​「じっとしていてください。俺が……あなたを、元の薪さんに戻したいんです」

「っ……」

 息を呑んで目を閉じる薪。長い睫毛に、コットンがそっと当てられ、雪子が施した完璧なアイラインが、ゆっくりと溶かされていく。

​「……雪子さんの最高傑作もこれで台無しだな」

​「いえ、俺にとってはいつものあなたが最高傑作です」
​ 
 恥ずかしくなるようなことを無意識で口走る青木に、取るに足らない戯言と思いつつも、ときめきに身震いする。
 まぶた、頬、そして鮮やかな紅が引かれた唇。青木の長い指先が丁寧に、作られた美しさの仮面を拭い去っていく。

「……」

 青木の手が止まっても、薪は幼く無防備な顔で、まだ大人しく目を閉じている。


​「どうした……終わったのか」

 ふわり、と視界を覆っていたタオルの重みが取り払われた。温かな湿り気とともに“装飾”が拭い去られると、少し赤らんだ目蓋を伏せ、濡れた髪を額に張り付かせた、この世で最も脆く気高いひとりの男がいる。
 青木は、息をすることさえ忘れてその顔に見入った。

「ええ……」

​ 声が震え、視界を熱く滲ませながら実感する。
 ようやくこの人を取り戻したのだ。狂気の鏡の中から。

​「お帰りなさい、薪さん」

 青木はたまらず、細い身体を壊さんばかりに強く抱くと、抱擁の衝撃で、肩に掛けられていた深い紺色のローブが滑り落ちそうになる。
 慌ててそれを直そうとする青木の手を、熱を帯びた薪の指先が遮った。

​「……待て。まだ上書きが済んでない」

​「上書き……って、だから薪さん、何を……」

​ 困惑する青木の首筋に薪は力なく腕を絡める。自白剤が理性を溶かし、媚薬で疼く肌を預けた。

​「男たちの手垢も、あの女の罵倒も……まだ僕にこびりついているんだぞ」

​ 薪は、助けを求めるような瞳で青木を見つめた。

​「拭え。お前の唇で、お前の熱で……僕の汚したすべてを、隅々まで塗り潰せ」

​ それは命令であり、懇願であり、そして一人の男への完全なる降伏だった。

「わかったなら……早く……しろ」

 青木の腕の中で、薪の身体も声も熱に浮かされたように小刻みに震えている。
 乱れた吐息が、青木の首筋を熱く濡らした。
 このまま、この無防備な身体になだれ込んで、すべてを蹂躙してしまいたい。青木の理性の防波堤は崩壊寸前だった。

​「でも、薪さん……」

​ 青木は、絡みついた薪の二の腕を掴んだ。
 ぐい、と引き剥がされた薪が、不満げに眉を寄せ、潤んだ瞳で青木を睨む。

​「……何をしている。早く僕に……触れ、って」

​ 焦燥に駆られた薪が、青木のシャツの胸元を力任せに掴む。唇を重ねようと顔を近づける薪の頬を、青木の大きな掌が包み込んで制した。

​「……できません。今は、ダメです」
​ 喉の奥から絞り出すような、掠れた声。
 薪の動きが止まる。困惑と、拒絶されたことへの微かな怯えに、ビクリと肩が震えたのが気配でわかった。
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