SACRIFICE〜鏡の中の生贄
緊急車両のサイレンが遠ざかっていく。
静かになった車内は、重苦しいほどの沈黙に包まれていた。
後部座席で、青木のコートにくるまった薪は、その大きな体躯に文字通り埋もれるようにして身体を預けている。破られた服の心許なさよりも、体内に残る薬の粘りつくような熱が、今もなお薪の繊細な神経を逆撫でしているようだった。
「……薪さん。寒くないですか。温度、もっと上げさせましょうか」
耳元に響く青木の心地良い声。薪は答えず、ただ小さく頷いた。言葉を発すれば、奥歯の隙間から震えが漏れてしまいそうだったからだ。
青木は、壊れ物を扱うような手つきで、コートの上からしっかり薪の肩を抱いている。その大きな掌の震えを背中で感じながら、薪は悪夢の余韻を体と一緒に預けてじっとしていた。
「……一つ、疑問なんですが」
青木が、躊躇いがちに口を開いた。
「三神の脳内映像で見た、安斉の身の上話。凶行に及んだ原因は、自分とタイプの違う女性に婚約者を略奪された恨みだったと……それがあんな惨い殺人を繰り返す動機になるんでしょうか」
青木の真っ直ぐな、ゆえに青臭い正義感を含んだ問いに、薪は閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。視界の端で、街灯の光が流れていく。
「……失恋は、あくまでターゲットを絞るきっかけに過ぎないんだろう。彼女の本質は己の開発した毒薬の完成度を試したいだけの……救いようのないマッドサイエンティストだ」
「えっ……でもそれじゃあ、あまりに彼女が救われないじゃないですか。三神が死んだのも、彼女の凶行を断ち切りたい思いもあったはずで……」
「安斉鷹良 」
「.……はい?」
「お前は知らないだろうが、彼女の父鷹良も30年前に殺人の罪を犯している」
諦めにも似た……どこか自身の境遇をなぞるような薪の口調。それを遮るように、青木は腕に力を込めて薪を引き寄せる。
「血筋なんて関係ありません。彼女自身がどう生きるか次第で運命は変えられたはずです。少なくともあなたは彼女とは違う。一緒くたに考えちゃ駄目です」
薪が行こうとする“向こう側”をすぐに遮断する青木の抱擁。
その体温が、薪の内に溜まった澱をじんわりと溶かしていく。
だが、温もりが浸透し、現実を受け止められるようになるにつれ、先ほどまで安斉から浴びせられていた悍ましい罵倒や、男たちのいやらしい手の感触が、鮮明な嫌悪感となって蘇ってくる。
「お前、来るのが遅すぎだ」
不意に薪がツンと顔を背けつつ、青木のシャツの襟元をぎゅっと掴んだ。
「えっ? あ、すみません……GPSと緊急車両を使って自分なりに最速最短で……」
「岡部もひどい。『主役は遅れて来る』だと? 冗談じゃない。お前が遅れたせいで気狂い女と変態男に弄ばれて、最悪だったんだからな!」
急に語気を強めて向き直る薪に、青木は面食らう。
薪の顔は紅く染まり、その瞳にははっきりとした「怒り」と、それ以上の「甘え」が混じった感情が、見たこともない表情で揺れている。
「……僕がどれだけお前を……お前がもっと早く来れば、あんな屈辱を味わわずに済んだのに。全部お前のせいだ!」
呆れるほどの……絵に描いたような、八つ当たり。
「薪さん……それは、元はといえばあなたが相談もせず一人で潜入捜査なんて無茶をしたからでしょう!? 俺だってあの画を見た瞬間からずっと、胸が焼け焦げる思いで生きた心地がしなかったんですよ!」
青木もまた、溜め込んでいた焦燥を爆発させて言い返す。だが、薪はその怒号すら心地よい子守唄であるかのように、うっとり耳を傾けながら青木の胸に顔を擦りつけてくる。
「うるさい……反対するのが分かっている奴に相談なんてするもんか。……いいから早く拭い去れ」
「え……?」
「あの男たちに触れられたのも、あの女の汚い言葉を浴びたのも……全部お前が上書きして忘れさせろ。それが僕を一人にしたお前の責任だろ」
八つ当たりにしてはあまりに艶めかしく、命令というにはあまりに無防備な薪の言葉。
青木は、腕の中の薪が、自白剤のせいで“嘘をつけない”状態であることを思い出し、猛烈な羞恥と独占欲に襲われ、そして戸惑う。
「ま、薪さん、上書きって……具体的にどうやって……」
「ここでは言えない……家に着いてからだ」
「家? てか病院に行かなくていいんですか?変な薬を飲まされてるんですよ!?」
青木の真っ当な心配に、薪は潤んだ瞳を微かに細め、彼のシャツの襟をさらに強く握りしめた。
「病院は嫌だ……お前がいい。このまま病院に行ったらその飲まされた薬のせいで……僕がお前に何をされたいか……ぜんぶ……バレる……」
「っ!?」
それは、媚薬以上に劇的な“告白”だった。
青木は頭が真っ白になり、思わず裏返った声で漏らした。
「ま、薪さん……そういうことなら……病院じゃなくあなたの部屋で聞きます!ゆっくり……二人きりで……」
車内に籠る熱気と衣擦れの音。
(……頼む、早く着いてくれ。俺は今、警察官人生最大の『聞いちゃいけない秘密』を聞かされているのでは……いや、聞いてない。全部忘れるから許してくれー!!)
石像のように硬直して運転している捜査員が、バックミラーを無言で跳ね上げる。
夜の静寂を切り裂いて走るパトカーの中で、青木も自分の心臓の音や疚しい身体の反応が、薪に届いてしまうのではないかと気が気ではなくなっていた。
静かになった車内は、重苦しいほどの沈黙に包まれていた。
後部座席で、青木のコートにくるまった薪は、その大きな体躯に文字通り埋もれるようにして身体を預けている。破られた服の心許なさよりも、体内に残る薬の粘りつくような熱が、今もなお薪の繊細な神経を逆撫でしているようだった。
「……薪さん。寒くないですか。温度、もっと上げさせましょうか」
耳元に響く青木の心地良い声。薪は答えず、ただ小さく頷いた。言葉を発すれば、奥歯の隙間から震えが漏れてしまいそうだったからだ。
青木は、壊れ物を扱うような手つきで、コートの上からしっかり薪の肩を抱いている。その大きな掌の震えを背中で感じながら、薪は悪夢の余韻を体と一緒に預けてじっとしていた。
「……一つ、疑問なんですが」
青木が、躊躇いがちに口を開いた。
「三神の脳内映像で見た、安斉の身の上話。凶行に及んだ原因は、自分とタイプの違う女性に婚約者を略奪された恨みだったと……それがあんな惨い殺人を繰り返す動機になるんでしょうか」
青木の真っ直ぐな、ゆえに青臭い正義感を含んだ問いに、薪は閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。視界の端で、街灯の光が流れていく。
「……失恋は、あくまでターゲットを絞るきっかけに過ぎないんだろう。彼女の本質は己の開発した毒薬の完成度を試したいだけの……救いようのないマッドサイエンティストだ」
「えっ……でもそれじゃあ、あまりに彼女が救われないじゃないですか。三神が死んだのも、彼女の凶行を断ち切りたい思いもあったはずで……」
「
「.……はい?」
「お前は知らないだろうが、彼女の父鷹良も30年前に殺人の罪を犯している」
諦めにも似た……どこか自身の境遇をなぞるような薪の口調。それを遮るように、青木は腕に力を込めて薪を引き寄せる。
「血筋なんて関係ありません。彼女自身がどう生きるか次第で運命は変えられたはずです。少なくともあなたは彼女とは違う。一緒くたに考えちゃ駄目です」
薪が行こうとする“向こう側”をすぐに遮断する青木の抱擁。
その体温が、薪の内に溜まった澱をじんわりと溶かしていく。
だが、温もりが浸透し、現実を受け止められるようになるにつれ、先ほどまで安斉から浴びせられていた悍ましい罵倒や、男たちのいやらしい手の感触が、鮮明な嫌悪感となって蘇ってくる。
「お前、来るのが遅すぎだ」
不意に薪がツンと顔を背けつつ、青木のシャツの襟元をぎゅっと掴んだ。
「えっ? あ、すみません……GPSと緊急車両を使って自分なりに最速最短で……」
「岡部もひどい。『主役は遅れて来る』だと? 冗談じゃない。お前が遅れたせいで気狂い女と変態男に弄ばれて、最悪だったんだからな!」
急に語気を強めて向き直る薪に、青木は面食らう。
薪の顔は紅く染まり、その瞳にははっきりとした「怒り」と、それ以上の「甘え」が混じった感情が、見たこともない表情で揺れている。
「……僕がどれだけお前を……お前がもっと早く来れば、あんな屈辱を味わわずに済んだのに。全部お前のせいだ!」
呆れるほどの……絵に描いたような、八つ当たり。
「薪さん……それは、元はといえばあなたが相談もせず一人で潜入捜査なんて無茶をしたからでしょう!? 俺だってあの画を見た瞬間からずっと、胸が焼け焦げる思いで生きた心地がしなかったんですよ!」
青木もまた、溜め込んでいた焦燥を爆発させて言い返す。だが、薪はその怒号すら心地よい子守唄であるかのように、うっとり耳を傾けながら青木の胸に顔を擦りつけてくる。
「うるさい……反対するのが分かっている奴に相談なんてするもんか。……いいから早く拭い去れ」
「え……?」
「あの男たちに触れられたのも、あの女の汚い言葉を浴びたのも……全部お前が上書きして忘れさせろ。それが僕を一人にしたお前の責任だろ」
八つ当たりにしてはあまりに艶めかしく、命令というにはあまりに無防備な薪の言葉。
青木は、腕の中の薪が、自白剤のせいで“嘘をつけない”状態であることを思い出し、猛烈な羞恥と独占欲に襲われ、そして戸惑う。
「ま、薪さん、上書きって……具体的にどうやって……」
「ここでは言えない……家に着いてからだ」
「家? てか病院に行かなくていいんですか?変な薬を飲まされてるんですよ!?」
青木の真っ当な心配に、薪は潤んだ瞳を微かに細め、彼のシャツの襟をさらに強く握りしめた。
「病院は嫌だ……お前がいい。このまま病院に行ったらその飲まされた薬のせいで……僕がお前に何をされたいか……ぜんぶ……バレる……」
「っ!?」
それは、媚薬以上に劇的な“告白”だった。
青木は頭が真っ白になり、思わず裏返った声で漏らした。
「ま、薪さん……そういうことなら……病院じゃなくあなたの部屋で聞きます!ゆっくり……二人きりで……」
車内に籠る熱気と衣擦れの音。
(……頼む、早く着いてくれ。俺は今、警察官人生最大の『聞いちゃいけない秘密』を聞かされているのでは……いや、聞いてない。全部忘れるから許してくれー!!)
石像のように硬直して運転している捜査員が、バックミラーを無言で跳ね上げる。
夜の静寂を切り裂いて走るパトカーの中で、青木も自分の心臓の音や疚しい身体の反応が、薪に届いてしまうのではないかと気が気ではなくなっていた。