SACRIFICE〜鏡の中の生贄

 羽田空港の到着ロビーを、一人の大男が風を切って駆け抜けていく。
 青木一行は、タクシーを待つ列には目もくれず、警視庁から回させた緊急車両に飛び乗ると、運転席の捜査員からハンドルを奪わんばかりの勢いで叫んだ。

​「渋谷だ! 急げ! 間に合わなくなる!」
​ GPSが示す紅い点は、円山町の奥まった路地で静止している。
 青木の脳裏に浮かぶのは、三神のMRI画像の中の、あの蒼いカクテルを飲み干そうとしていた、あまりに危うい薪の横顔――

(薪さん……! どうかご無事で……無茶するなよ、絶対!!)

 青木の愛する者を奪われまいと血眼になる獣のようにギラギラ光り、敬語すら忘れて焦れったく祈るように独り言ちている。
 だが、まさに薪は今、その“無茶”をしているのだ。


​ ――視界が、青く、滲む。
 薪はカウンターに肘をつき、辛うじて上体を支えていた。炭酸の刺激はとうに消え、代わりに粘り気のある熱が、脊髄を這い上がってくる。明らかに何かを盛られた違和感だ。

​「へーぇ、勇気あるわね。それともまだ何かを企んでるとか?」

​ 萌絵果の声が、水底から響くように遠い。彼女は歪んだ笑みを浮かべ、薪の顎先を冷たい指先でなぞった。

​「効いてきたでしょ……自白剤と媚薬のブレンドよ。頭ははっきりしているのに、自分の心やカラダを制御できなくなる。……さあ、まずあなたの好きな人の名前から教えてもらおうかしら?」

「っ……」
​ 薪は奥歯を噛み締めた。答えなど出す必要はない。だが、混濁する意識の隙間から、どうしてもあの真っ直ぐな青年の顔がせり上がってくる。

「あ……ぉき……っ」

​「ふうん、本命がちゃんといるのに、三神を弄んだのね? 許せない。あの男はあなたを救うために私を裏切ったというのに……」

​ 萌絵果の顔が憎悪で醜く歪み、ネイルアートの施された指で、背後の壁にあるスイッチを入れる。
 鏡の一部がスライドし、高感度のレンズが薪を捉えた。

​「報いを受けさせてあげる。いいポーズを撮らなきゃね」

​ 彼女が指を鳴らすと、奥のカーテンから屈強な体躯の男たちが二人、音もなく現れた。

​「これからあなたを滅茶苦茶に汚しながら、無残な雌豚のドールにしてあげるわ。そして、メイキング動画と一緒に『アオキくん』へ送りつけてあげる。……さて、彼はどんな顔をするかしらね?」

​ 薪のドレスの肩紐に、男たちの無骨な手が伸びる。

「……やめ、ろ……」

 拒絶の言葉は掠れた吐息にしかならない。

​「私はね、強い女が大嫌いなの。だからドールにして殺してきた。でも、あなたはそれ以上に嫌い。強い上に私と同じ可愛さも、頭脳も持ちあわせてて……さらには他人を狂わせる。私の愛した男まで。何でも持ってる奴は生きてるだけで加害者なのよ。壊してあげるのが一番だわ!」

​ 男たちの手により、乱暴にドレスの胸元が引き裂かれた。
 だが、露わになったのは、萌絵果が期待した柔らかな曲線ではなかった。

​「……え?」

​ 萌絵果の表情が固まる。
 そこにあるのは、無駄な脂肪の一切を削ぎ落とした、しなやかで強靭な「男」の胸板だった。

​「……男? うそ……男なの? 男のくせに、私より、女より美しいの? ……アハッ、ウケる! 最高に面白いじゃない!!」

​ 萌絵果の狂気は絶頂に達し、彼女は興奮に頬を染めて男たちに命じた。

「いいわ、このまま続けなさい! 完璧な聖女が実は男で、雄に屈して辱められた末ドールになるなんて、最高の演出だわ!」

​ 意識が遠のく中、薪は一縷の望みに縋ろうと、砕け散る理性の破片を掻き集めようとする。
 無情にも男たちの掌が薪の脚や腰に回って、我先にと引き寄せようとする。
 万事休す――そう思った瞬間、

​ ――ドォォォォォンッ!!
​ 鈍い振動音と共に、鏡張りの重厚な扉が、枠ごと吹き飛んだ。
 砕け散った硝子の破片が、蒼い光を反射して舞い踊る。

​「……そこを、どけ」
​ 埃の中から現れたのは、息を乱し、全身から怒りの炎を噴き上げている青木だった。
 その視線が、男に組み伏せられ、服の裂けた薪の姿を捉えた瞬間――店内の温度が、氷点下まで凍りつく。

「どけろ、って!」

 圧倒されて動きを止めた男たちに、青木が怒鳴った。

​「わからないのか?俺の薪さん・・・・・に触ってる汚い手を今すぐどけろって言ってんだ!!」
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