SACRIFICE〜鏡の中の生贄

 どんなに深刻な状況下でも、明るさを失わないのが、岡部室長配下・第三管区の持ち味だ。
 
​「室長。白石女史から“続報”が入りましたので、報告します――」
​ 波多野がスマホを片手に、室長席にいる岡部に向かって大真面目にチャット文を読み上げる。
​「第八管区青木室長は、三神のMRI捜査中に、あまりの嫉妬……あ、いえ、怒りで、愛用の高級万年筆を指一本で叩き折ったそうです。で、『愛しの薪さんを奪還しに行く!』といった趣旨の雄叫びをあげながら、今さっき福岡空港から飛び立ったようです」

​「……奪還、ねえ。あいつの中では、薪さんは拐われた姫君か何かなんだろうなぁ」
​ 岡部が呆れたように溜息をつく。
 そんな二人のやり取りを、部屋の奥に置かれた大きなパーテーションの向こうで聞いている者がいた。

​「姫君とは、誰のことだ?」

​ 凛とした、けれどどこか艶を含んだテノール。
 パーテーションからゆっくりと姿を現したその人物を見て、波多野は持っていたスマホを床に落としそうになった。

​「はわわっっ……!!」

「……薪さん……あ、あんた……」

​ そこには漆黒のウィッグを靡かせ、夜を溶かし込んだような黒のスリットドレスに身を包んだ「美女」がいた。
 それは、雪子のメイクによって再び変貌を遂げた美しき囮。昨夜、三神の命と引き換えに繋ぎ止めた己の命を、さらなる危機へと投じる無謀な潜入を、躊躇いもなく選ぼうとしている……薪剛だった。

​「どうだ……雪子さんに見えるか」

​ 薪が鏡で自らの姿を確認しながら、無表情で問いかける。
 波多野は頬を赤らめながら、ブンブンと首を横に振った。

​「いえ! 雪子さんをモデルにしたのは分かりますけど、なんていうか……本家よりずっと女っぽくて、その……危ういです。男なら一目見ただけで、人生踏み外す自信があります!」

​「馬鹿なことを。……それより、あのバカが福岡を発ったというのは本当なのか?」

​「ハイッ、白石さんの話じゃ『薪さんを奪還する』と、獣のような雄叫びをあげながら空港へ走っていったそうですよ。時間的にもうすぐ羽田に着く頃でしょう」

​ 波多野の言葉に、薪はふと表情を緩めて目を伏せた。
 鏡越しに見る自分の瞳には、隠しきれない揺らぎが映っている。

​(……やはり三神の脳から手がかりを掴んだか。そして頼んでもないのに……相変わらず無鉄砲極まりない奴)

​ 呆れる一方で、胸の奥に灯る微かな熱望を、揉み消すこともできずにいる。

​「……ちょうどいい。僕が死んでもあいつがいれば、僕が何を見て、何を思って死んだか、MRI無しでもわかるから」

​「やめてくださいよ」

​ 岡部が腕組みをしたまま、ぼそりと告げる。

​「……せっかく拾った命なんですから。昨日の今日で粗末にせんでください」

​ 薪は冷徹な表情で岡部を一瞥しただけで、何も答えない。
​ そして高く鋭いハイヒールの音を響かせながら歩き出した。

​「今から『Le Miroir』へ入る。……青木には、せいぜい急ぐように伝えておけ」 

​ 漆黒のドレスの裾を翻し、自動扉の向こうへ消えていく薪。
 残された波多野は、薪のあまりに美しすぎる後ろ姿に合掌しながら呟いた。

​「岡部さん。あのお姿、青木さんが現場で見たら……犯人を店ごと爆破するんじゃないですかねぇ」

「うーん……否定できんのが困りものだな」

 そう答えながらも岡部は、死ぬことを厭わない薪が「青木」の名前を聞いただけで、表情に生気を宿らせたことに、僅かな希望を覚えていたのだった。


 そして渋谷円山町。看板も出していない地下一階への階段を降り、重厚な扉を開くと、そこは逃げ場のない鏡の世界がある。

​​「――やっぱり、また来たのね」

​ カウンターの奥の隠し扉の向こうにあるVIP室の薄暗がりの中、待ち構えていた安斉萌絵果は、薪を見て歪んだ笑みを浮かべる。

 三神のMRI映像に仲睦まじい様子を残していた愛くるしい表情は、一夜にして激変していた。 
 髪は乱れ、充血した瞳には、絶望と、目の前の「侵入者」へのどす黒い憎悪が、隠しようもなく渦巻いている。

​「かぐわしいわね。死に囲まれて磨かれた不吉な香りが、むせ返るほどに……」

​ 萌絵果の視線の先――暗がりに浮かび上がる薪の姿は、現実味を欠くほどの美しさが際立っていた。
 陶器のように滑らかな白い肌は、血の温もりのない真珠のように淡く輝いている。長く濃い睫毛に縁取られた瞳は透き通った榛色で、感情を削ぎ落とした静謐さを湛えながら、萌絵果の罪の深淵を見通しているようにもみえた。
 それでいて、綺麗な唇に紅く引かれたルージュは初々しい瑞々しさをたたえている。

​「人を寄せ付けない強さも、守りたくなるような危うさも持っている。あなた、一体何者なのよ?」
​ 苛ついた声で訊く萌絵果の指先が、カウンターに並べられた数本の注射器をなぞる。
​「三体のドール……あれはすべて同じように見えて、薬の調合を全部変えていたのよ。まず顔面が固まり、そこから麻痺が全身に広がって……最後に心臓を止めるまでの『時間』と『効きめ』を少しずつ変える実験を楽しんだの」

​ 彼女は研究成果を語る学者のように、恍惚とした表情で薪を見つめた。その目に映る薪の姿こそが、彼女が追い求めた究極の“素材”だった。

​「でも、あなたには、まだこれは打たない。……まずは乾杯しましょう? 『Le Miroir』へようこそ」

​ 萌絵果が持ってこさせたのは、昨夜の三神の最期の盃と同じ、透き通るような深い蒼のカクテルだった。
 グラスの底から絶え間なく湧き上がる細かな炭酸の泡が、まるで閉じ込められた魂の吐息のように、青い液体の中で美しく、残酷に弾けている。
 鏡のテーブルに映り込んだ無数のグラスが、冷ややかな蒼い光を放ちながら薪の視界を包囲した。

​「……三神は、この色を愛していたわ。そして、これを分かち合いながらあなたに殉じた。……飲みなさいよ。それとも、怖い?」

​ 薪はその挑発を、氷のような沈黙で受け止めた。
 この中に即効性の毒は入っていないはずだ。
 萌絵果の目的は、まず自分の自由を奪い、じわじわと恐怖の中で“加工”することなのだから。

​ 薪はグラスを手に取った。
 何面もの鏡が、互いに黒装束を纏った自分と萌絵果が、冷酷な乾杯を交わす姿を映している。

​(……来るなら、今だぞ。青木)

​ 薪は心の中でその名を呼び、覚悟を決めて、冷たい蒼の液体を喉へと流し込んだ。
 弾ける炭酸の刺激と共に、熱い火のような感触が、ゆっくりと、自身を蝕み始めるのがわかった。
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