SACRIFICE〜鏡の中の生贄

​​「……つよしくん。本当にいいの?」

​ 午後22時。黒田雪子の自宅のドレッサーの鏡の前には、薪がシルクのスリップ一枚という無防備な姿で、ちょこんと座っている。
 雪子の手には、自分のお気に入りの化粧道具と、変装用に用意された、彼女の髪型と同じ形と色のウィッグがあった。

​「当然ですよ。僕なら、三神の狙う獲物の『型』を完璧に演じられる。あなたの安全を確保した上でホシを挙げるのに、もってこいの手段だ」

​ 雪子は溜息をつき、薪の白い肌に刷毛を滑らせる。 
 監察医としての冷徹な手つきではなく、今は目の前の友人を“完璧な獲物”へと変えるメイクアップアーティストのそれだ。

 数十分後。鏡の中に映る姿は、薪剛という男ではなくなっていた。
 夜の闇を溶かし込んだような黒いワンピース。雪子の面影を残しつつも、鋭利であり触れれば壊れそうな硝子の美しさを纏った「女」がそこにいたのだ。

​「……完璧。悔しいけど、私よりずっと魅力的だわ。三神じゃなくても、一瞬で目を奪われてしまいそう」

​ 雪子はうっとりと、自らの最高傑作を見つめる。が、ふと我に返ったように眉を寄せ、鏡越しの薪と視線を合わせた。

​「ちょっと待って……青木くんには、このこと言わなくていいの?」

​ その名が出た瞬間、薪の長い睫毛が微かに揺れた。

​「……福岡で仕事をしている奴に、余計な心配をさせる必要はない」

​「心配どころじゃないわよ。あの子がこれを知ったら、ひっくり返るどころか、東京まで飛んでくるんじゃない?」

 雪子は本気で慌て始める。かつて青木と婚約関係にあった頃や解消時も……事あるごとに、青木の薪に対する重くて巨大な愛情を、肌身で感じてきたのだから。

「……あのさ、つよしくん。あなたはいつも自分を犠牲にすることに迷いがないけど、青木くんのキモチを少しは考慮しないと。自分の知らないところであなたが『獲物』になってるなんて知ったら、彼、正気じゃなくなって何をするかわからないわよ」

​「……独占欲?馬鹿馬鹿しい。捜査に部下の私情など関係ない」

​ 薪は冷たく言い放って、立ち上がる。
 と、同時に子ども部屋から愛娘のむずかる声に、雪子も立ち上がった。

 玄関でハイヒールの履き心地を苦々しく確かめてから、薪は優しい顔で振り向いて頭を下げた。

​「雪子さん、ご協力感謝します。日向ちゃんもお元気で」

​ 扉の向こうに消える薪を見送る雪子は、愛娘を抱っこしてあやしながら、小さく呟いた。

「……関係ないわけないじゃない。あれだけ想われてるのに無視するなんて、本当に罪だわ、あなた」


 そして翌朝。
 第八管区の捜査室。

 スリープ中の大型ディスプレイでは、届いたばかりの速報テロップが、三神の急死を流していた。

​「三神響吾……確か母さんがファンだったな。まだ若かったのに……自殺か?」

​ ふと目を留めた青木が独りごちていると、胸ポケットの携帯が振動する。第三管区の岡部からだ。

「青木か。管轄外なのは百も承知だが、三神のMRI画像を今送ったので、お前に見てもらいたい」

​「岡部さん……有名人の不審死なら捜査一課の領分でしょう? なぜ第九に?」

​「……是非お前にと、薪さん直々のご指名だからだ」

​ 薪さんの名前が出た瞬間、青木の背筋に電流が走る。

「は、はい。承知しました。 で、その薪さんは今、どちらに?」

​「極秘任務中だ」

​「はあ!?また一人で勝手に……って、岡部さん何で止めないんですかっ!!」

​「いいから見てくれ、青木。一刻を争うんだ。『お前にしかわからない画』があるそうだから、頼んだぞ」

「っ……そこまで“ご存知”でいてあの人はっ……!」

 自分の能力を誰より買って、信頼してくれている。その歓喜を塗りつぶすほどの激しい感情が青木の胸を焼き焦がす――こうして俺を頼るなら、なぜ隣にいさせてくれない?
​ もどかしさに苛まれながら、青木はMRI捜査のモニターを起動した。

 捜査一課の資料を照らしても、三神は例のドール事件のホシという線が濃厚だった。三人の女性を死に追いやった罪悪感による自死であると推察されている。
 検案書には、ドール事件で使われた特殊な薬物(神経を麻痺させ筋肉の硬直により表情を凍りつかせたまま死に至らしめる毒薬)が、体内に残留していたと書かれているのも動かぬ証拠だ。

 問題は、いつどうやってそれが体内に取り込まれたか、だ。
 青木は映像をざっと確認がてら、死亡推定時刻から手動で巻き戻しながら“犯行現場”を確かめ……強烈な違和感に手を止める。

 なんだ、これは――?

 ある時を境に、三神の世界の“色”がまるで違うのだ。
 その時から死の間際まで、三神の視界は異様なまでの、興奮と恍惚状態になっているように見えるのだ。
 その“境”は、明らかだった。
 ある“女”との出会い。

「……!!」

 昨夜の鏡張りのバーのVIP席の画。
 彼に冷たい一瞥を寄越す一人の美女が、三神の陶酔したフィルターを通して、青木の目を釘付けにする。

「え……これ……は」

​ 青木はマウスを操作する手ももどかしく、その美女の横顔をフォーカスしていく。
 漆黒のストレートボブの凛とした横顔は雪子に似ている。が、決定的に何かが違う。
 漆黒のウィッグも、丁寧に引かれたアイラインも、青木の目を欺くことはできなかった。
 その睫毛の繊細な動き、顎の細いライン。何より、男を惹きつけながらその実、誰にも心を許さない硝子細工のような孤高の美しさ。

「……薪、さん……?」

 脳が理解するより早く、早鐘を打つ心臓がその名を叫んでいた。
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