SACRIFICE〜鏡の中の生贄

 全く無意識の間に眠っていたようだ。
 幼い頃以来の……深く……満たされた眠りだ。

 薪はゆっくりと目蓋を持ち上げる。
 如何わしい薬の靄が晴れ、心地よい気だるさと幸福感が心身を満たしている。
 そして隣を見れば、無防備な寝顔を晒した青木がいる。

​(……こいつは、本当に……)

​ 自分とは違う、光の世界の住人のような穢れなさ。
 本来なら、自分のような人間が触れていい存在ではなかったはずだ。それなのに、昨夜の青木ときたら「離さない」と、あんなにも強く執拗に必死に結んだ身体を繋ぎ止めてきて――
 
 薪は躊躇いがちに指を伸ばし、青木の柔らかな髪にそっと触れた。
 このまま、この温もりに甘えてもいいのだろうか。
 そう思いながらふと、昨夜の自白剤の霧の中で口走ったあられもない言葉の数々が、書き換えられない確かな記憶として蘇ってくる。赤面だけじゃたりない、依存、懇願、そして悦び。
 次々思い出すたびに心臓が跳ね、穴があったら入りたい気持ちになって、薪は思わず布団を引き寄せた。

​「……ん、……薪さん?」

​ 引っ張られる振動で、青木がゆっくりと目を開ける。
 薪と目が合った瞬間、その顔に極上の笑みが広がった。

​「あ……おはようございます。夢じゃ、なかったんですね……」

​ 青木は幸せの只中にどっぷりと浸ったまま、吸い寄せられるように薪を抱きしめる。
 そして額に、頬に、そしてまだ熱の残る唇に、降り注ぐ慈しむようなキス。

​「薪さん、大好きです。……本当に、俺、もう死んでもいいくらい……」

​「……よせ、青木。朝っぱらから……」

​ 突き放そうとするが薪の頬は、隠しようもなく紅潮し、表情も甘く艶めかしい。
 その反応にさらに掻き立てられた青木が愛おしさを爆発させ、しなやかな身体を抱きしめ直そうとした――その時だった。
​ 
​「……ところで、青木。一つ、訊きたいことがあるんだが」

​「え? なんですか? 何でもどうぞ!」

​ 尻尾を振る犬のように目を輝かせ、マテの姿勢を取る青木。
 薪は自分に覆いかぶさったままの大型犬を見上げて、極めて事務的なトーンで訊ねる。

​「……お前が指一本で叩き折ったという万年筆」

​ 瞬間、ベッド周りの気温が一気に下がった。

「あれは僕が以前贈ったもので間違いないんだな」

 青木の顔から血の気が引き、幸せな朝の空気は一気に吹き飛び空気が凍りついている。

​「あ、い、いえ! それは……その、不可抗力で……っ」

​「あれは限定品だったんだぞ。……お前に折られるくらいなら僕が愛用したかったほど、気に入りのものだったのに」

​「す、すみません!! 弁償します、じゃなくて、一生かけてお詫びを……っ!!」

​ 慌てふためき、ベッドの上で正座せんばかりの勢いで謝り倒す青木。
 薪はその様子を冷ややかに見つめていた目を細め、微かに、満足げに口角を上げた。

​「……いいだろう。それならお前のこれからの働きで、返してもらおう」

​ そう言って、薪は乱れたシーツから滑り出し、ベッドを後にした。
 露わになったその背中に、もはや死に急ぐ影はない。そこにあるのは、青木が昨夜刻みつけた、赤く確かな熱の痕跡だけだった。

​「はいっ! 任せてください!一生かけてあなたを愛しますから!何度だって抱いて、もう二度と離さ……」

​「馬鹿っ!仕事の話だ。寝言言ってないで、早く準備しろ」

​ 感極まってベッドの上で吠える青木の顔面に、無造作に丸められたシャツとスーツが飛んできた。

​「ブフッ……あ、はい! すぐに!」

​ 顔面を塞がれながらも、青木は投げつけられた布地の向こう側に、薪が耳まで真っ赤に染めているのを見てしまい、また幸せがムクムク湧いてくる。
 
 窓の外では、新しい一日が眩しいほどの光とともに幕を開けようとしている。
 失った万年筆よりも、暴かれた秘密よりも、今は二人の心身を満たす確かな「生」の重みが、何よりかけがえのない“真実”だった。
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