枯れ葉とメロディ

 暗い寝室内に、熱を帯びた吐息が充満している。
 ベッドサイドのランプが灯る小さな音とともに浮かび上がったのは、乱れたシーツに横たわる薪の、あまりに繊細で、奇跡のように美しい造形だった。

​「……消せ……っ」
​ 視線を遮ろうと顔を覆う薪の腕を、青木が優しく、しかし拒絶を許さない力で解いた。
 ランプの柔らかな杏色が、薪の白い肌を甘く照らし出す。熱を持つ頬、濡れた睫毛の震え、そして呼吸に合わせて波打つ鎖骨の窪み。結び合うことで否応なしに伝えあう肉体の律動が、青木の欲と執着を伴い薪の内側で激しく擦り合う。

​「……無理ですよ。こんなに綺麗なあなたを、見ないなんて勿体なさすぎて……」

​ 肌の隅々までなぞる指先と唇。そして一つに繋がった場所から伝わる、逃げ場のない刺激。青木は、薪というかたちと、その存在のすべてを確かめるように、じっくりと内と外から愛でていく。

​「や……めろ……っ……も……う……」
​ 拒絶を装う薪から漂う清潔な石鹸の香りと、彼自身の淡く清涼な匂いが、青木の情欲を掻き立て繋がりが深くなる。体内の熱を執拗に掻き回す淫らな音と狂おしい快感が、二人の五感を蕩かし狂わせていた。

​「なんでもいい……覚えていてください、薪さん。言葉でも、音楽でも、……この感触も、すべて。あなたのなかに、俺だけをずっと、刻み続けてほしい……」

​ 熱を孕んだ重い吐息が鼓膜を震わせる。青木は薪が漏らす微かな嗚咽や肌の震えを、一つひとつ丁寧に拾い上げては、あらゆる角度と深さで貪り、その反応のすべてを読み解こうとする。

 夜明けまで続いたその愛撫は、祈りにも、誓いにも似た、互いの奥底からの執着だった。
​ 薪からこぼれる吐息は、かつて喉を鳴らした旋律のように甘く、青木を求めて切なく紡がれる。
 自身の境界線が青木という奔流に溶かされていくなかで、薪はただ、この「生の重み」の濁流に押し流される営みに「幸せ」を感じてしまう自分を、もう、否定することができなくなっていった。


​ 翌朝。
 カーテンをほんのり明るく照らす初冬の光に、薪は重い瞼を上げた。
 身体の芯に残るけだるさと、肌の裏側に生々しく刻み込まれた熱の記憶。それらを一つずつ振り払うようにしてゆっくり起き上がり、ベッドを離れる。

​ オープンキッチンに向かうと、昨夜の「男」の顔を朝霧の向こうへ吹き飛ばし、甲斐甲斐しく朝食を整える青木と目が合った。

​「おはようございます、薪さん。……ちょうど今、出来上がりましたよ」

「食事はいい」

​ 何事もなかったかのように微笑む青木。その屈託のなさが、かえって昨夜の情景を鮮明に引き出し、薪はたまらず視線を逸らした。
 逃げるように洗面所へ向かい、冷たい水で顔を洗い、歯を磨いて、乱れた髪を整える。
 そして、鏡の中の自分を見つめ、普段の姿を取り戻そうと試みていた。

​ ダイニングに戻ると、それを見計らったかのように、湯気を立てる一杯の味噌汁がテーブルに置かれた。
 
 既に自身の準備を整えた青木の、静かな視線に見守られながら、薪は促されるように一口、その汁を啜った。

​(……あ)
 
 その瞬間、昨夜の、あの深く溶け合うような熱の感覚が、味覚を通して鮮明に蘇った。
 出汁の丁寧な風味、隠し味の穏やかな甘み、鼻に抜ける香ばしさ。それは、昨夜自分を甘やかし、蹂躙し、そして最後には温かく救い上げてくれた「青木の愛し方」そのものと同じ、優しくも執拗な“幸せの味”だった。

 薪は、熱を帯びた椀を両手で包み、込み上げる感情を隠すように深く俯いた。
 もう、諳んじて覚えてしまってる「手紙」。
 そこに綴られているのは、自分を縛る呪いや孤独な魂をものともしない、生命そのものなのだ――と、今、文字通り腑に落ちた気がした。
 
「じゃあ、行ってきます」

​ 靴を履き、コートを整えた青木が、玄関で薪を振り返った。

​「ああ」
 
 玄関の扉を開けると、冷たく乾いた冬の空気が室内に流れ込んでくる。外では一枚の枯れ葉が風に乗って宙を舞っていたが、今の二人がそれに目を留めることはない。
 ただ、濃密な沈黙の中で、互いの存在しか意識せずに見つめ合っている。

​​「薪さん。俺、また手紙を書きますね……今度は、もっとあなたのカラダに響くような、恥ずかしいやつを……」
「……っ、お前、いい加減にしろ!」

​ 顔を真っ赤にして憤慨する薪に、青木はいたずらっぽく目を細めた。

「何で慌てるんです?読んでくれないんだから、俺がいくら書いても安心じゃないですか」
 
 くるくる変わる薪の表情を愛おしげに眺め、青木は迷いのない、確信に満ちた声で告げた。
 
「また、来ますね」
 
 扉が閉まり、廊下に響く青木の足音が遠ざかっていく。
 残された静かな部屋で、薪はゆっくりと、肺の奥に溜まっていた息を吐き出した。
 
 明日が希望に満ち溢れているかなんて、やはり誰にも分からない。けれど、自分の内側やこの部屋の空気に刻まれた「青木」という余韻が、薪の一日の始まりを、確かな色彩で浮き立たせていた。
 
 薪は、ゆっくり出かける支度を始めた。
 その唇から、再び『Moon River』が、零れていることにも気づかずに。
4/4ページ