枯れ葉とメロディ

 湿った熱気と共に、浴室の扉が開いた。
 上気した肌に滴を纏い、無防備な姿で現れた薪は、目の前の光景に息を呑む。

​「……青木?」

​ 脱衣所の狭い空間。そこには、薪のパジャマを抱えたまま、肩を震わせて立ち尽くす大きな背中があった。

「そんなところで、何してるんだ」

​ 問いかけに振り返る青木の顔を見て、薪はさらに凍りつく。
 曇った眼鏡を外し、袖で強引に涙を拭うその目からは、まだ止めどなく涙が溢れていたからだ。

​「……っ! なぜ泣いてるんだ。何があった?」

​ 咄嗟に事件か事故かを疑う。だが、青木はどこか詰るような、それでいて愛しさに狂いそうな眼差しで薪を捉えて離さない。

​「……薪さん。どうしてあなたは、そういう……」

「……僕が、なんだ」

「俺の好きな歌……知っててくださったんですね」

「歌……だと?」

​ 聞き返した瞬間、薪の脳裏にさっきまで自分が口ずさんでいたメロディが鮮明に蘇る。

(っ、僕としたことが、声に出てしまっていたのか)

​ ドクン、と心臓が跳ね上がる。耳の奥まで一気に血が昇り、顔がカッと熱くなった。
 無意識だった。けれど、大切に、慈しむように、青木という存在を想ってなぞった旋律を、あろうことか本人に、それもこの至近距離で聴かれていたなんて。
 その事実が薪の理性を焼き切った。

​「……っ、ふざけるな! 盗み聞きとは人が悪いぞ!」

​ 動揺のあまり激昂する薪の両肩を、落ち着かせるように撫でながら掴む。

​「そうじゃなく……薪さん、あの手紙、本当は読んでくれたんじゃないですか? 俺が何を求めているのか分かってて……そうやって次々と、あなたは俺の……」
「うるさい。読んでいないと言っているだろう!!」

​ 薪の声が裏返り、足元がふらついて、青木の胸元に崩れるようにしがみついた。
 あの、青木の切実な思いが凝縮された手紙。
 自分の世界を塗り替え、魂の在り処となったあの文面に、自分がどれほど救われ、同時に惑わされたか。 
 それを認めることは、自分という人間のすべてを青木に明け渡すことに他ならない。

​「しつこいぞ、青木。あれは……お前が風呂でいつも曲を流してるせいで……ただの条件反射だ。お前こそ、いつまでそんなところで突っ立ってるんだ。目障りだ、どけ!」

​ 薪は、青木の手からパジャマをひったくると、二回り大きな長身を突き飛ばしてリビングへと逃げ込んだ。
 濡れたままの身体に、震える指で無造作にパジャマを纏う。
 慌てて追ってくる青木の気配を断ち切ることができずに、足を止めて振り返る。
 突き放そうと発した次の言葉が、自分でも制御できないほど甘い「言い訳」になって漏れてくる。

​「……お前が今日作った料理も、そうだ。いつも、退屈なほど優しい味……お前の味付け、お前のことならもう身体が覚えている。だから、いちいちそんな顔をして、僕の機嫌を取りにくる必要なんて……」

​ それは薪にとって精一杯の、不器用な慰めの言葉だった。
 その言葉を聞いた瞬間、青木の動きがピタリと止まる。

​「……身体が、覚えている……?」

​ 低く繰り返された青木の声に、薪の体内に戦慄が走る。
 見上げれば、青木の瞳にさっきまでの感傷を焼き尽くすほどの獰猛な熱が点っている。

​「薪さん……それ、どういう意味で言ってるんですか。俺の、どこが、どうあなたに馴染んでいるのか……今夜、確かめてもいい、ってことですよね?」

「は……? おい、何だその目は。離れろっ!」

​ 後退りする薪の腰を、青木は逃さない。大きな手が、湿ったパジャマの上から細腰を引き寄せる。

​「薪さんが言ったんですよ。身体が覚えてるって……それなら、もっと深く思い出させてあげますよ」 

「馬鹿を……言うなっ。明日、早いんだろう!」

​「寝かせないなんて言ってません。たっぷり可愛がった後、俺の腕の中で寝かせてあげるって言ってるんです」

​ 有無を言わせぬ腕が薪の背中に回り、まだ湿り気を帯びたパジャマを剥ぐ。
 そのパジャマはタオルみたいに薪の小さな頭を包み込み、わしゃわしゃと、無造作な動きで髪を拭いはじめる。

​「……っ、何をする」

「髪、拭かないと風邪引きますよ」

​ 薪は子どものような扱いに困惑しつつも、生地越しに伝わる青木の体温と、頭を撫で回される心地よさに、強張っていた肩の力が次第に抜けていく。

​ この男は、いつもそうだ。
​ 荒々しい独占欲をぶつけてきたかと思えば、次の瞬間には、泣きたいほどの慈愛で包み込んでくる。
 薪は目の前の青木のシャツの胸元を、震える指先で掴んだ。
 
「……お前も濡れたな」

​ 薪の指が青木の上衣のボタンを解いてゆっくりと開く。
 露わになる青木の胸板に、吸い寄せられるように額を預けると、互いの肌が触れた場所から吸い付くように熱を伝え合った。
 どちらからともなく重なる唇は、湿った熱を孕み、淫らな音をたてて溶け合っていく。

​ 寝室に縺れ込み柔らかなシーツに沈む直前。
 頬を撫でる青木の唇がこめかみを辿って、薪の耳元を低く掠めて囁いた。
​「……手紙の返事。言葉の代わりに……あなたの反応だけで、全部、読み解いてみせますから」
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