枯れ葉とメロディ
キッチンから漂う出汁の香りと、規則正しい包丁の音。
それが薪の耳には、これまでの一連の捜査や裁判という異常な事態と日常を切り離していく、この世で最も平和な音に聞こえる。
「あまり食欲がない。さっきのスーパーの買い物を見ただけでもう満腹だ」
リビングのソファで、薪が膝を抱えて呟く。
キッチンに立つ大男は、振り返りもせず「はいはい」と事もなげに受け流している。
「昼間、裁判所で精神擦り減らした後も、随分歩き回ったんですから、そんなはずありません。薪さんの好きな豆腐のすり流し、今日は特別にとろろ入りですよ。それと、少しだけ炊き込みご飯も……」
薪の目の前に並べられたのは、驚くほど優しく、確実に手を伸ばしたくなる膳だった。
一口運べば、疲れた身体の隅々に温かな滋養が浸透していく。
文句を形どるはずだった薪の唇は、二口、三口と動くたびに、いつの間にか穏やかに緩んでいった。
「……味付けが、濃すぎないのはいい」
「知ってます……全部、知ってますから」
青木の慈しむような微笑と眼差しに見守られ、箸を運びながら、薪はまた一段と自分の「深み」にこの男を踏み込ませている罪悪感を肌身で感じている。
これが二人にとって良いことなのか、わからないままなのに。
「ご馳走様。……風呂に入ってくる。お前はさっさと片付けを済ませておけ」
ぶっきらぼうに言い捨てた薪は、逃げるように席を立った。
わからないまま、幸せを受け入れるのが怖くて、本能的にその場を離れるしかなかったのだ。
「はい、ゆっくり温まってくださいね」
背後から届く青木の声が、妙に湿度を帯びて聞こえ、薪は耳の裏が熱くなるのを感じながら浴室の扉を閉めた。
湯船に浸かり、白い湯気に包まれると、ようやく落ち着きを取り戻せたような気がする。
静寂が訪れるとともに、昼間の光景が瞼の裏に蘇ってくる。
――掃き溜められた枯れ葉は、僕にとっては死の象徴だった。
――青木という存在が飛び込めば、そこは一転、温かな遊び場に変わってしまう。
山中要には家族が。そして、僕には……
「あおきがいる」
まじないのように薪は唱えた。
自分の中に流れる血への不安が消えるわけではない。けれど、青木が差し出す「日常」という温もりが、自分にとって至上の救いとなっているのは紛れもない事実なのだ。
「Moon river, wider than a mile……」
無意識に唇を震わせて零れるメロディ。
青木はストレスを溜めると、風呂にスピーカーを持ち込み、自分の好きな古い映画音楽を結構な音量で流す癖がある。
漏れて聴こえるその柔らかな音色は、知らず知らずのうちに、薪の心に深く根を張っていたようだ。
自分を「こちら側」に繋ぎ止めてくれる、青木という存在。そして青木の好きなものたち……切なく甘い、古い映画の主題歌を紡ぐ。
薪の儚く透明な歌声が、湿った空気の中に溶け出していく。
その頃、青木は薪の言いつけ通り、誠実にキッチンを片付けていた。
食器を拭き終えて乾燥機にかけ、明日の朝食の準備を整える。
そして、クローゼットから昨日洗ったばかりの、糊のきいた薪のパジャマを取り出した。
(薪さん、ちゃんと温まっているかな……)
脱衣所の扉の前に立ち、棚にパジャマを置こうとしたその時だった。
「……っ」
青木の指先が、ぴたりと止まる。
風呂場から漏れ聴こえてくるその歌。
世間一般の娯楽に欠片の興味もなく、難解な学術書を読み漁るのが常だったあの人が。今、誰にも見せない無防備な場所で、俺の好きな旋律を、あんなに儚く優しい声で、愛しげになぞっている。
まるで、ご自身のお気に入りの曲みたいに――
パジャマを抱えたまま、青木は脱衣所の床に立ち尽くした。
目頭が熱くなり、みるみる視界が滲む。
その歌声は、青木にとってどんな言葉で紡ぐ「愛の告白」よりも雄弁で、そして切実な、薪からの――あの手紙への「返事」にもきこえていたのだ。
それが薪の耳には、これまでの一連の捜査や裁判という異常な事態と日常を切り離していく、この世で最も平和な音に聞こえる。
「あまり食欲がない。さっきのスーパーの買い物を見ただけでもう満腹だ」
リビングのソファで、薪が膝を抱えて呟く。
キッチンに立つ大男は、振り返りもせず「はいはい」と事もなげに受け流している。
「昼間、裁判所で精神擦り減らした後も、随分歩き回ったんですから、そんなはずありません。薪さんの好きな豆腐のすり流し、今日は特別にとろろ入りですよ。それと、少しだけ炊き込みご飯も……」
薪の目の前に並べられたのは、驚くほど優しく、確実に手を伸ばしたくなる膳だった。
一口運べば、疲れた身体の隅々に温かな滋養が浸透していく。
文句を形どるはずだった薪の唇は、二口、三口と動くたびに、いつの間にか穏やかに緩んでいった。
「……味付けが、濃すぎないのはいい」
「知ってます……全部、知ってますから」
青木の慈しむような微笑と眼差しに見守られ、箸を運びながら、薪はまた一段と自分の「深み」にこの男を踏み込ませている罪悪感を肌身で感じている。
これが二人にとって良いことなのか、わからないままなのに。
「ご馳走様。……風呂に入ってくる。お前はさっさと片付けを済ませておけ」
ぶっきらぼうに言い捨てた薪は、逃げるように席を立った。
わからないまま、幸せを受け入れるのが怖くて、本能的にその場を離れるしかなかったのだ。
「はい、ゆっくり温まってくださいね」
背後から届く青木の声が、妙に湿度を帯びて聞こえ、薪は耳の裏が熱くなるのを感じながら浴室の扉を閉めた。
湯船に浸かり、白い湯気に包まれると、ようやく落ち着きを取り戻せたような気がする。
静寂が訪れるとともに、昼間の光景が瞼の裏に蘇ってくる。
――掃き溜められた枯れ葉は、僕にとっては死の象徴だった。
――青木という存在が飛び込めば、そこは一転、温かな遊び場に変わってしまう。
山中要には家族が。そして、僕には……
「あおきがいる」
まじないのように薪は唱えた。
自分の中に流れる血への不安が消えるわけではない。けれど、青木が差し出す「日常」という温もりが、自分にとって至上の救いとなっているのは紛れもない事実なのだ。
「Moon river, wider than a mile……」
無意識に唇を震わせて零れるメロディ。
青木はストレスを溜めると、風呂にスピーカーを持ち込み、自分の好きな古い映画音楽を結構な音量で流す癖がある。
漏れて聴こえるその柔らかな音色は、知らず知らずのうちに、薪の心に深く根を張っていたようだ。
自分を「こちら側」に繋ぎ止めてくれる、青木という存在。そして青木の好きなものたち……切なく甘い、古い映画の主題歌を紡ぐ。
薪の儚く透明な歌声が、湿った空気の中に溶け出していく。
その頃、青木は薪の言いつけ通り、誠実にキッチンを片付けていた。
食器を拭き終えて乾燥機にかけ、明日の朝食の準備を整える。
そして、クローゼットから昨日洗ったばかりの、糊のきいた薪のパジャマを取り出した。
(薪さん、ちゃんと温まっているかな……)
脱衣所の扉の前に立ち、棚にパジャマを置こうとしたその時だった。
「……っ」
青木の指先が、ぴたりと止まる。
風呂場から漏れ聴こえてくるその歌。
世間一般の娯楽に欠片の興味もなく、難解な学術書を読み漁るのが常だったあの人が。今、誰にも見せない無防備な場所で、俺の好きな旋律を、あんなに儚く優しい声で、愛しげになぞっている。
まるで、ご自身のお気に入りの曲みたいに――
パジャマを抱えたまま、青木は脱衣所の床に立ち尽くした。
目頭が熱くなり、みるみる視界が滲む。
その歌声は、青木にとってどんな言葉で紡ぐ「愛の告白」よりも雄弁で、そして切実な、薪からの――あの手紙への「返事」にもきこえていたのだ。