ASTERISM 2064 七夕

 いつ眠ったのかさえ、覚えていない。
​ 青木が目を覚ました時には、狂おしく愛を注いで一つになった肉体の片割れは、すでに隣にはいなくて。

​ 上体を起こして手探りでヘッドボードの上のメガネをかければ、窓際のテーブルでノートPCに向かい、すでにM.I.D.Pを纏める研究者の顔で淡々とキーを叩く薪の姿が目に入った。

​ 昨夜の甘く激しい情事の最中、涙を浮かべて善がったことなどすべて幻だったかのような、凛とした美しい横顔。

​「薪さん、おはようございます」

​ 青木はゆっくりと体を起こして、下半身にシーツを纏ったまま呼びかける。

「ああ」
​ 画面から目を離さないままの、短い返事。

​「朝食は、ご一緒できますか? お仕事中なら、ルームサービスでも……」

​「……うん。適当に頼んでおけ」

​ あくまで反応はそっけなく、冷ややかだ。
 青木は胸の奥で小さく苦笑しつつ、この人のあまりに分かりやすい“不器用な防衛本能”を深く愛おしく思う。
 昨夜、自身を全て明け渡してしまった羞恥から逃げるために、必死に仮面を被り直しているのだろう。


​ やがて運ばれてきた朝食は、自家製グラノーラのギリシャヨーグルト添えに、色鮮やかな季節のフルーツ。そして、香りの高い濃いめのコーヒー。
 完全に薪の身体の健康と好みを配慮した、青木ならではのチョイスだった。

​「……お口に合いますか?」

​「そうだな、悪くない」
 
 薪は言葉少ないどころか、一度として青木と視線を合わせることなく食事が進み、終いにはコーヒーを啜りながら現地の新聞を読み始める始末だった。
 昨夜、青木の背に縋りついて何度もその名を呼んだ愛の痕跡が、まるでこの部屋に初めから存在しなかったかのように、徹底して。

​ 青木はどこか苦い思いを胸に抱えながらも、静かに身支度を調え、帰国の準備を済ませた。

​「それでは、俺はそろそろ……」

​ サミットのために新調してきたスーツを再び纏い、MRI捜査官の顔に戻ってカードキーを薪のテーブルにそっと置く。
 そして、部屋を出る間際、ドアノブに手をかけたまま、意を決したように薪に向き直った。

​「あの……日本に帰国したら、すぐに連絡しますね。またこうして会える機会を……どんな手段を使ってでも、必ず見つけますから」

​ 真っ直ぐなその言葉に、マウスを動かす薪の白く細い指先がぴたりと止まった。
 そして、わざとらしく青木から顔を背けて、窓の外の景色を見下ろしたまま、白々しく言い放つ。

​「……そうだな、青木。昨夜のことが……その、お前にとって『気持ちの良いもの』だったのなら。お前にいつか本命の相手が現れるまで、割り切った関係として続けることくらいは……考えてもいい」

​「……は?」

​ 青木の口から、低く乾いた声が漏れた。
 それは、薪剛が自分自身に課した、あまりに身勝手で、どこまでも残酷な“慈悲”だった。
 自分の不毛な想いのもとに青木の輝かしい未来を縛り付けたくない、けれど、どうしても手放すこともできない。
 苦し紛れに弾き出した妥協点が、自分を“都合のいい関係”として消費しろという、あまりに哀しい提案なのだ。

​ 青木は無言のまま、ツカツカと歩み寄ってきて、デスクの前の薪の目の前でぴたりと足を止めた。大柄な影が薪を覆う。

​「……何か、文句でも?」

​ 動揺を隠して睨み返しながら勢いよく立ち上がった薪の視界に、青木の大きな手が振り上げられるのが映った。

​(……打たれる)

​ 当然の報いだ、と薪は瞬時に思った。自分は今、この男の純粋でまっすぐな想いを、最低な言葉の泥靴で踏みにじったのだから。 
 
 薪は自嘲と共にその罰を受け入れる覚悟を決めて、ギュッと強く目を瞑った。
​ けれど――いつまでたっても、予期した痛みの衝撃は来ない。

 代わりに、大きな熱を帯びた、酷く優しい掌が、薪の両頬を逃がさないようにそっと包み込んだ。

​「……?」

​ 驚いて目を開けると、そこには打つ気など毛頭ない、泣き出しそうなほど真剣で、魂ごと射抜くような眼差しを向ける青木がいた。

​「俺はもう、間違えたくないんです。薪さん」

​ 青木の長い指が、愛おしさに震えながら、薪のなめらかな頬をゆっくりと撫でる。

​「あなたこそが、俺の、この世界のどこを探しても代わりのいない『命』なんですから。何度言わせるんです? そんなに俺からの愛の言葉が聞きたいんですか?」

​「……っ!」

​ 薪の白い肌が、一瞬で沸騰したように耳元まで真っ赤に染まった。
 己の臆病な羞恥と、それ以上に、心の最も深い、暗闇の奥底にある“愛されたい、独占されたい”という本当の欲求を、一言で暴かれた衝撃。

​「好きです。あなたが望むなら何度でも言いますよ、薪さん。……もう、俺は絶対にあなたを離しません」

​「何を……勝手な事をっ……!」

​ 青木は、赤くなって怒る子供のような薪をそっと抱き寄せて、その耳元で、昨夜の続きを噛み砕いて与えるように深く囁いた。

​「昨晩、言いましたよね。織姫と彦星の気持ちがわかったって。……知っていますか? あの二人はただの恋人じゃなくて、『夫婦めおと』なんですよ。一年に一度しか会えなくても、永遠に離れない夫婦です」 
 
 星の伝説になぞらえて、一生分の愛で自分をがんじがらめに縛り上げようとする青木の図々しさに、薪はついに毒気を抜かれ、降伏するようにその広い胸に顔を深く埋めた。

​「これが……お前の『イメージ通り』なのか」

​「はい。……きっと、ずっと求めていたものだと思います。ずいぶん遠回りをしてしまいましたが」

​(遠回り……)
​ 青木がそう言うのを、薪は胸の中で不思議に思った。
 自分のほうが、ずっと……青木が思うよりもずっと前から、ずっと深い感情でこの男を見ていた気がするのに。
 
 それをこの傲慢な男に伝えるつもりは毛頭ない。
 最後はなんだか強引に丸め込まれてしまったけれど、七夕にかこつけたこの男の若々しい熱量に、今はただ黙って身を任せていたかった。


 チェックアウトまでまだ二時間ある。
​ 青木を見送った後、薪は独り、静かになったスイートルームの広い窓の外を見渡した。
 ここから見上げるNYの空は、どこまでも高く、優しい青い色をしている。
 2064年の七夕に刻まれた二人の新しいログは、ここから永遠に“二人分”を互いに刻み続けていくのだろう。
 
 離れていても、近くにいても。

 この空の下、二人の共鳴シンクロは、もう誰にも解くことができないことは、本当はこうなる前からわかっていたのかもしれない。
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