ASTERISM 2064 七夕

​ エレベーターの中は、まるで黄金色の籠のようだ。
 密閉された空間に響く音は、二人の呼吸だけ。
 青木の腕に預けられた、薪の身体の確かな重み。  
 さっきの事件に臨んだ昂揚感が、一年の空白を瞬時に埋める密接な熱となって、衣服を通した互いの肌を繋いでいる。
​ それが冷めやらぬうちに目的の最上階フロアに到着し、二人は毛足の長い絨毯の廊下を抜けて、宿泊する部屋の重厚な扉を開けた。

 静かに足を踏み入れたスイートルーム。
​ 一度意識の外に追いやった戸惑いや葛藤は、もう追いついては来ないはず。
​ 広い全面窓の外には、セントラルパークに点在する灯りがまるで地上に降りた星座のように連なり、周囲の摩天楼が天の川のように幻想的に浮かび上がって見えた。

​ だが、薪はそんな窓外の絶景を横目にすり抜け、リビングの一角にある重厚な大理石のカウンタースペースへと迷いのない足取りで入っていく。

 カチリとミニバーを開ける小さな音がした。

​「喉が渇いた。……少し飲み直せば、今夜はよく眠れるだろうな」

​ わざと無造作を装う声と、ウイスキーボトルへと伸びる綺麗な指先。

​「……あ、俺がやります。水割りにしますか?」

​ カウンターの対面から近づいた青木が、ボトルを引き取ろうと手を重ねかけた。しかし、薪はそれを振り払ってボトルを囲い込む。

​「ロック……いや、ストレートだ」

​「……」

​「……おい、突っ立ってないでグラスを寄越せ」

​ 手に取った二つのグラスを見つめる青木は動作を止めたままだ。
 ストレートで煽るには強すぎる琥珀色の液体。
 張り詰めた理性をアルコールで麻痺させようとする薪の魂胆が、痛いほどに伝わってくる。

​「深酒すると……本当に戻れなくなりますよ」

​「……なんだ、泊めてくれるんじゃないのか」
​ 
 薪は自嘲気味に鼻で笑うと、動かない青木の手から強引に酒瓶を奪い取った。
トトト、と静かな空間に軽快な音が響き、透明なグラスに琥珀色の液体が満たされていく。
 それを一気に喉へ流し込もうとする薪の手首を、青木が力強く掴んで制した。

「『帰れない』んじゃなく、『戻れない』と言ったんです」
 青木の手が、薪からグラスを奪い取ってカウンターへ置く。
​「どういう意味で俺が今夜『あなたと一緒にいたい』と言っているのか、本当に分かっていますか?」

​ 答えを待たずに、背後のクローゼットに歩いていった青木は、仕舞ってある荷物の中から取り出したものをベッドの上に置いた。
​ 白一色のシーツの上に、避妊具の箱とゼリーの容器のシュリンクフィルムの光沢が、あまりに異質で生々しく照らされている。
 薪の白い肌が、その意味を察して、一気に鮮やかな朱へと染まった。

​「……お前、何を、考えて……っ!」

​ 薪の声が初めて激しく上擦る。青木はそんな薪の動揺を、低く掠れた声で受け止める。

​「これを見て、いまあなたの頭をよぎった通りの――卑猥なことです」

​「っ……!」

​「もし、さっきの事件のほとぼりを冷ましにこの部屋へ来ただけだ、と仰るのなら……冷たいミネラルウォーターでも飲んで、今すぐそのままアパートメントへ帰るのが賢明ですよ」

​ 青木はカウンターを隔てた薪を真っ直ぐに見つめたまま、自らのジャケットを肩から脱ぎ捨ててナイトテーブルの上に落とす。
 そして、躊躇うことなくネクタイと、シャツのボタンを外しにかかる。はだけた鎖骨の間から覗く欲望を孕んだ男の体躯に、薪は思わず目を逸らした。

​「僕……が帰ると言ったら?……お前は本当に、僕を帰す気があるのか?」

​ 薪が声を震わせて訊く。そこには抗いきれない熱とは裏腹に、そんな自分を止めて欲しいと乞うような甘えが混じり合っている。

​「ありません。それに……」
​ 青木はカウンターに手を突き、薪をのぞき込むようにして極限まで距離を詰めた。お互いの熱い吐息が触れ合う距離で、榛色の瞳を射抜く。
​「あなたは、絶対に断らない。そう思うのは……俺の自惚れですか?」

​ 獲物をじわじわと追い詰める肉食獣のようでありながら、どこまでも深い慈愛に満ちた視線。
 薪はその圧倒的な熱に当てられ、呼吸さえ忘れたように絶句している。

​「七夕に、わざわざ天の川を越えて再会しておいて、手も繋がずに別れる織姫と彦星なんて、世界のどこを探したっていませんよ」

​ 薪が小さく深い溜息を吐いた。
 その美しい口角が、自嘲気味に上がる。

​「全く……お前のその図々しさには、つくづく呆れるな。……先に風呂を借りるぞ」

​ 背を向けて足早にバスルームへと向かう薪。

 青木にすべてを捧げたいのに、心の中にはまだ「自分の身勝手な想いで、この若い男の将来を潰したくない」という重い自責が渦巻いている。
​ 降り注ぐ熱いシャワーを浴びながら、石鹸の泡を纏う薪の手指が、どこまで洗うべきか迷いながら自らの身体を彷徨っていた。
 疼く下半身や後ろの蕾に触れるたび、さっきの青木の大きな手や、あの長い指の感触が重なって、身体がじわりと熱い「反応」を繰り返してしまう。

​(僕は、何を、考えているんだ……っ)

​ 壁の鏡に映る、自分の上気した肌。青木への浅ましい欲望を突きつけられた薪は、目眩を催し壁に崩れるように手をついた。


​「……っ、やっぱり、もう帰る!!」

​ 濡れた髪のまま、薪がバスローブを乱雑に羽織って勢いよくバスルームから飛び出してくる。

​「えっ!? ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」

​ クローゼットを開けて着てきたスーツを掴み取ろうとする薪の身体を、青木は背後から掴まえる。

​「離せ、青木……っ! 僕がお前と……ッ、結ばれるなんて、どう考えてもおかしいだろう! お前は、もっと若くて聡明な女性と幸せな家庭を築いて、福岡の舞ちゃんにだって、可愛い妹や弟を産んで育ててやるべきなのにっ……!」

​「あの、落ち着いてください。いろいろと俺の将来を思い描いていただいて本当に嬉しいんですが……」
​ 青木は腕の中で暴れる薪の耳元へ口唇を寄せ、静かに、かつ強めの口調で伝えた。
​「俺の幸せは、もう俺の中で、あなたと一緒にいるカタチをしっかりイメージできちゃってるんです」

​「っ……!」

​ 暴れる薪を封じるように包み込み、青木は唇で湿り気の残る首筋を唇でなぞる。

​「あなただって……言葉では頑なに拒むくせに、身体はぜんぜん違う、正直な反応をしてるじゃないですか」

​「……っ、あ……」

​「いい加減素直になってください。俺だって嫌がるあなたを無理やり抱けるほど、経験豊富じゃないんですから……」

​ 足元にローブが落ち、薪の震える肌は青木の大きな手と熱い唇に撫で回されている。

​「……あ……っ……あお、き……っ……」

​ 薪は短く甘い吐息を漏らしながら、そのまま糸が切れたように愛撫の濁流に身を投げた。
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