ASTERISM 2064 七夕

 さっきまで静寂を奏でていた最高級のラウンジが、一瞬にして電子音と人間の叫びが渦巻く混沌へと変貌する。
​ 天井の至る所から降り注ぐ、異常なホログラムの群れ。
 それは空間演出やナビゲーションではなく、ラウンジの客たちの脳内からダイレクトに引きずり出された「記憶の残像」に見えた。

​「……マインド・テロか」

​ 立ち上がる青木に薪が近づき、低く鋭い声で呟く。
 最新型のコンシェルジュ・システムがハッキングされ、グロテスクな光の像となって空間に溢れ出しているのは、厳重に秘匿されるべき客たちのプライバシー映像だ。そう気づいたと同時に――

​ ズ、クン……ッ!
​ 激しい耳鳴りとともに、青木の脳に強烈な負荷が突き刺さる。
 視界が歪み、酷いノイズを伴いフラッシュバックを始める脳の最奥に仕舞い込んでいた「記憶」の断片。 
 会場全体に放射されているジャミング電磁波が、ここにいる人間の脳内記憶に強引に干渉しているのだ。

​「くっ……」
​ 青木は思わず頭を押さえて横を向く。隣に立つ薪もまた、青白い顔をして自身の胸元を強く掴んでいるのが目に入ってハッとする。

​(ダメだ……っ、薪さんの脳内なかみだけは、絶対に……!)
​ 強い衝動に突き動かされた青木は、近くのテーブルクロスを力任せに剥ぎ取ると、手近なホログラムの発光源を覆い隠した。

​「青木……っ、避難誘導を! クロスは他の場所もだ。これ以上、ここにいる客人たちの脳内なかみを外界に晒させるな……っ」

​「了解です! 薪さんは」

​「僕がシステムを直接叩く。1分でいい、時間を稼ぐんだ!」

​「――はい!」

​ 一年前まで幾度となく繰り返されていた苛烈な死線。それを乗り越えてきた二人の間に、もはや詳細な確認など不要だった。
​ 頭をかち割るような激痛。記憶を抉じ開けられる恐怖のなかで、お互いの存在だけが、いま自分が立っている現実の輪郭を繋ぎ止めてくれる。

「皆さん、早くこちらへ――!」

​ 青木は外国人にも劣らないその大きな体躯を盾にして怯える要人たちを電磁波の届かないホールの端へと導き、すぐさま現場へと駆け戻った。そして、残りのテーブルクロスを次々と引き剥がしては、忌々しいホログラムの光を遮っていく。 

​ 一方、薪は脳内を侵食するハッキングの波を超越した集中力で跳ね除け、メインコンソールに細い指を滑らせていた。
 狂ったように画面を埋め尽くす、明滅コードの海。 
 青木が必死に稼ぐ「1分」という時間の中で、薪は神懸かり的な嗅覚を発揮し、システムを汚染しているバックドアの起点を探り当てた。

​「……消えろっ。僕の、領域から……!」

​ 薪の指が、最後の一打を叩く。
 刹那、ラウンジを埋め尽くしていた光の奔流と、脳を苛んでいた不快な電磁波が、プツリと糸が切れたように霧散した。

 10分後。
 客人たちが退避し、静まり返った人けのないバーの店内に、通報を受けて駆けつけたNYPD(ニューヨーク市警)の怒号が遠くから響き渡った。
 なだれ込んできた屈強な警官たちは、現場の中央に佇む、場違いなほど若くて可憐な性別不明の東洋人へと一斉に銃口を向ける。

​「動くな! 手を上げろ!」

​ 突きつけられた何十もの銃口を前にした薪は、眉一つ動かさず静かに両手を上げ、冷徹な視線で彼らを射抜く。

​「……僕の胸元の、身分証を見ろ」

​ 先頭にいた大柄な白人警官が、威嚇を崩さぬまま、薪の仕立ての良いスーツの胸ポケットから警察手帳をひったくって検視した。
​ その直後、警官の顔が驚愕に染まる。
 彼は唖然として手元にある身分証と、薪の顔を何度も何度も見比べている。
​ 身分証に記されていたのは、インターポールの協力機関でもある日本の警察組織において、頂点に近い位置に君臨する階級だった。

​「……警視正(Senior superintendent)……だと……!?」 

​ 背後にいた他の警官たちからも、一斉にどよめきが上がった。
 未成年のような美貌と、そこに記載された重すぎる肩書きの圧倒的な乖離に、百戦錬磨のニューヨーカー警官たちが完全に言葉を失っている。

 薪はそんな彼らを冷ややかに見据えたまま、事務的に引き継ぎの言葉を告げた。

​「デバイスのコアは、今こちらで制圧した。ログの保全もすべて完了している。あとの捜査は君たちに預けた。僕は休暇中なのでよろしく頼む」

​ 警官の手から身分証をスマートに取り返した薪は、呆然と立ち尽くす彼らの間を一瞥もくれずにすり抜けて歩き出す。
 青木もまた、避難させた客たちの保護状況をホテルの責任者に手際よく報告し、すぐさまその後を追いかけた。


​ 薄暗い非常階段の踊り場へと辿り着いた二人は、激しく肩を上下させて向き合っていた。
 オレンジ色の非常灯が照らし出すお互いの表情は、他の誰も立ち入れない聖域で魂を共鳴させた後の、堪らない爽快感に満ちあふれていた。

​「……ふっ、はは。……とんだ七夕ですね、薪さん」
​ 青木が、息を整えながらネクタイを乱暴に緩めて苦笑した。
​「でもやっぱり……俺たちは、こうじゃないと」 

​「七夕……」
​ NY暮らしには懐かしい響きを反芻しながら、薪はコンクリートの壁に背を預けて乱れた前髪を無造作にかき上げる。
 アドレナリンが引いていくと共に、負荷のなくなった脳に残るあの“共鳴”の余韻が、さっきよりも強く、深く、薪の心身を支配していく。
​ 理屈ではない。言葉でもない。
 あの極限状態で、自分の呼吸、鼓動を、これほどまでに完璧に受け止め、自らと現場を守り抜ける人間は、世界広しといえども、そうはいないだろう。
 さらには、ここまで自分を虜にし、狂わせる人間など、この世にたった一人しかいないのだ。
 思いを拒絶するための“仮面”は、痛快な汗と共にとうに剥がれ落ちていた。

​「……青木」

​ 薪の声が、これまでに聞いたことがないほどの湿り気を帯びて響く。

​「……お前という男は……いつも、僕の計算を台無しにする」

​「え? これ、俺のせいじゃないですけど?」 

​ 青木が戸惑ったように聞き返すと、薪は苦く、けれど何かを委ねるような眼差しを真っ直ぐに向けた。

​「いや、お前のせいだ。もう、僕は……」

​ あの時お前が引き留めたから。そして偶然テロに居合わせたから。そんな中でもお前が僕の脳内の防壁を超えて、激しく心を揺さぶってくるから――
​ 薪はゆっくりと、自分を見下ろす青木の広い胸元へと、額をこつんと預けた。
 かつて死を望んだ自分を、無理やりこの世界へと繋ぎ止めた、あの日の夜の温かい体温が、確かにそこにある。

​「……疲れた。……部屋まで、連れて行け」

 それは、薪が自分以外の誰かに初めて降伏を認めた、静かな合図だった。
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