ASTERISM 2064 七夕
7月7日。
マンハッタンの夜空は厚い雲に覆われていたが、地上80階に位置するホテル『ザ・ネビュラ・マンハッタン』のラウンジバー『アステリズム』から見下ろす地上は、まるで底なしの銀河のように瞬いて見える。
I.M.R.A.S 2064(国際MRI再構築・分析サミット)――脳内記憶再構築技術の粋を集めたこの世界会議も、本日すべての全日程を無事に終えた。
ラウンジ内には、最先端の議論の余韻を愉しむ世界各国の要人たちの姿が、柔らかなゴールドのスポットライトに照らされ点在している。
その一角。二人は夜景に溶け込むようなカウンター席に、静かに並んで座っていた。
切り出された氷の惑星を琥珀に浸したようなウイスキーグラスを、指先で静かに揺らしている、薪の横顔。
近くにいるのに、それはあまりに遠くに見える。
一年前、空港へと向かう車内で「待っているから」と言い残してくれたその人の、その言葉だけを糧にして、この一年を死に物狂いで頑張ってきた。
なのに、いざこうして隣に座れば、その人は誰の追随も許さない未知の領域へさらなる進化を遂げていて、圧倒的な美しさを冷たく研ぎ澄ましているように見えるのだ。
途方もなく遠く感じる割に、肩が触れそうなほどの至近距離にその体温があることが、切ないほどに心地好かった。
「近年世界中に広まりつつあるMRI捜査だが、今回お前をこのサミットに呼んだのは、決して僕の欲目じゃない。“あの事件”の特異性と有効性が極めて高く――」
視線は窓外の夜景に向けたまま、薪はどこまでも“元上司”らしい、冷静な言葉を紡ぐ。
「今日の発表で世界を驚かせたお前は、もう名実ともに国際的な第一人者だ。その自覚を忘れず、これからも捜査と研究に勤しめよ」
「いえ、あの捜査はあなたが居たから……」
俺はまだ駆け出しで、ただ必死にあなたの背中を追っていただけでした――と、反射的に出かかった謙遜の言葉を、青木は寸前で喉の奥に押し留めた。
目の前にいる偉大な人は、たった一年で、その背中を見失いそうなほど高みへと昇り続けている。今ここで自分を卑下することは、この人を追いかけるのを諦める「降伏宣言」になりかねないから。
「……はい。精進します」
青木が決意を込めて短く答えると、薪は満足げに目を細めた。
そしてすぐに、飲み干したグラスをカウンターに置く。
中の氷惑星がカラコロと、冷ややかな音を立てた。
「では、僕はこれで。明日の朝も早い」
手早くチェックを済ませ、スマートに席を立つ。一分の隙もない、潔すぎる引き際。
だが、今日の青木はそれを許さなかった。
「薪さん、ここの部屋……」
「……?」
低く呼び止める声に、薪が不審そうに足を止める。
「俺が学会側から招待されたこのホテルの部屋は『パートナー帯同が可能』な、スイートルームなんです」
振り返った薪の榛色の瞳が、戸惑いの微弱な波を立てた。
「チェックインの際、フロントで『ご家族は?』と聞かれましたので……書いておきました」
「は……? 何を」
「あなたの名前を」
BGMのモダンジャズが、一瞬で遥か遠くへ退いたように感じた。薪の美しい表情が、凍りついたように静止している。
天井のスポットライトが、彼の見せた明らかな戸惑いも、隠しきれない激しい動揺も、すべてをあからさまに照らし出していた。
「……何をバカげたことを。僕には近くに自分のアパートメントがある。余計なお世話だ」
「そんなこと、百も承知です」
青木は、ジャケットのポケットの中にあるカードキーを、形が変わるほど強く握りしめた。
「俺と一緒にいてほしい、と言ってるんです。『待っている』と言ってくれましたよね?」
薪は、返す言葉を失ったように細い唇を強く噛んだ。
(なぜ一年前、こいつを完全に突き放さなかったのだろう。そしてなぜ、自分でも整理のつかない期待を抱かせるような言葉を、この男に残してしまったのか――)
自分自身ですら説明のつかないその問いへの答えを、薪は脳内のどの領域にも、まだ保存できずにいた。
「薪さん……」
青木が薪へと、最後の一線を完全に踏み越えるように歩み寄った――その時だった。
ウゥゥゥゥン――ッ!!!
ラウンジの贅沢な空気を強引に引き裂くような、鋭く高い警告音が突如として鳴り響く。
それと同時に、さっきまで幻想的に演出されていた室内のライティングが、狂ったような赤い光を発して激しく明滅し始めた。
マンハッタンの夜空は厚い雲に覆われていたが、地上80階に位置するホテル『ザ・ネビュラ・マンハッタン』のラウンジバー『アステリズム』から見下ろす地上は、まるで底なしの銀河のように瞬いて見える。
I.M.R.A.S 2064(国際MRI再構築・分析サミット)――脳内記憶再構築技術の粋を集めたこの世界会議も、本日すべての全日程を無事に終えた。
ラウンジ内には、最先端の議論の余韻を愉しむ世界各国の要人たちの姿が、柔らかなゴールドのスポットライトに照らされ点在している。
その一角。二人は夜景に溶け込むようなカウンター席に、静かに並んで座っていた。
切り出された氷の惑星を琥珀に浸したようなウイスキーグラスを、指先で静かに揺らしている、薪の横顔。
近くにいるのに、それはあまりに遠くに見える。
一年前、空港へと向かう車内で「待っているから」と言い残してくれたその人の、その言葉だけを糧にして、この一年を死に物狂いで頑張ってきた。
なのに、いざこうして隣に座れば、その人は誰の追随も許さない未知の領域へさらなる進化を遂げていて、圧倒的な美しさを冷たく研ぎ澄ましているように見えるのだ。
途方もなく遠く感じる割に、肩が触れそうなほどの至近距離にその体温があることが、切ないほどに心地好かった。
「近年世界中に広まりつつあるMRI捜査だが、今回お前をこのサミットに呼んだのは、決して僕の欲目じゃない。“あの事件”の特異性と有効性が極めて高く――」
視線は窓外の夜景に向けたまま、薪はどこまでも“元上司”らしい、冷静な言葉を紡ぐ。
「今日の発表で世界を驚かせたお前は、もう名実ともに国際的な第一人者だ。その自覚を忘れず、これからも捜査と研究に勤しめよ」
「いえ、あの捜査はあなたが居たから……」
俺はまだ駆け出しで、ただ必死にあなたの背中を追っていただけでした――と、反射的に出かかった謙遜の言葉を、青木は寸前で喉の奥に押し留めた。
目の前にいる偉大な人は、たった一年で、その背中を見失いそうなほど高みへと昇り続けている。今ここで自分を卑下することは、この人を追いかけるのを諦める「降伏宣言」になりかねないから。
「……はい。精進します」
青木が決意を込めて短く答えると、薪は満足げに目を細めた。
そしてすぐに、飲み干したグラスをカウンターに置く。
中の氷惑星がカラコロと、冷ややかな音を立てた。
「では、僕はこれで。明日の朝も早い」
手早くチェックを済ませ、スマートに席を立つ。一分の隙もない、潔すぎる引き際。
だが、今日の青木はそれを許さなかった。
「薪さん、ここの部屋……」
「……?」
低く呼び止める声に、薪が不審そうに足を止める。
「俺が学会側から招待されたこのホテルの部屋は『パートナー帯同が可能』な、スイートルームなんです」
振り返った薪の榛色の瞳が、戸惑いの微弱な波を立てた。
「チェックインの際、フロントで『ご家族は?』と聞かれましたので……書いておきました」
「は……? 何を」
「あなたの名前を」
BGMのモダンジャズが、一瞬で遥か遠くへ退いたように感じた。薪の美しい表情が、凍りついたように静止している。
天井のスポットライトが、彼の見せた明らかな戸惑いも、隠しきれない激しい動揺も、すべてをあからさまに照らし出していた。
「……何をバカげたことを。僕には近くに自分のアパートメントがある。余計なお世話だ」
「そんなこと、百も承知です」
青木は、ジャケットのポケットの中にあるカードキーを、形が変わるほど強く握りしめた。
「俺と一緒にいてほしい、と言ってるんです。『待っている』と言ってくれましたよね?」
薪は、返す言葉を失ったように細い唇を強く噛んだ。
(なぜ一年前、こいつを完全に突き放さなかったのだろう。そしてなぜ、自分でも整理のつかない期待を抱かせるような言葉を、この男に残してしまったのか――)
自分自身ですら説明のつかないその問いへの答えを、薪は脳内のどの領域にも、まだ保存できずにいた。
「薪さん……」
青木が薪へと、最後の一線を完全に踏み越えるように歩み寄った――その時だった。
ウゥゥゥゥン――ッ!!!
ラウンジの贅沢な空気を強引に引き裂くような、鋭く高い警告音が突如として鳴り響く。
それと同時に、さっきまで幻想的に演出されていた室内のライティングが、狂ったような赤い光を発して激しく明滅し始めた。
1/5ページ