よる博多→まよなか東京

​ 嵐のような熱が去り、寝室には深い静寂が戻っていた。
 青木の腕に抱かれたまま、薪はぼんやりと天井を見つめている。さっきまで囚われていた身体の境界線が溶けてなくなるような感覚――その余韻が心地よい重みとなり、薪の身体をベッドに沈ませていた。

​「……本当に、幸せすぎて死ぬかと思いました」

 耳元に青木の少し掠れた低い声が響く。

「でも、こういうご褒美は……小出しにしていただかないと、俺の命がもちませんよ」

​「……フッ……ああ」

 薪は力なく笑い、自分を包み込んでいる青木の腕にそっと指先を滑らせた。

​「……全部、あの『イッコー』のせいだ」

「えっ、俺のせいですか?」

​「違う。一甲巡査だ。彼の結婚話を聞いたとき、僕の世界は本当に終わったと思ったんだ」

「ああ……イッコー違いの件ですね。あれにはもう、俺も生きた心地がしなかったです。あなたのあんな顔を見たら……」

​ 青木が苦笑しながら、愛おしさを堪えきれない様子で薪をさらに強く抱き寄せた。

「もう、あんな顔させたりしません、一生」

 その腕の強さに身を預けながら、薪は目を閉じて、静かに唇を動かした。

​「……一行」

​ 不意打ちだった。
 肩書きも苗字もない、ただ名前だけが、羽毛のように柔らかく耳元を打つ。
 青木の身体が、驚いたようにぴくりと跳ねたのが伝わってきた。
 薪は顔を上げず、大男の胸板に唇を寄せて、独り言のように言葉を繋いだ。

​「あの時、僕が聞いた『イッコウ』がお前ではなかったことに、心から感謝している。……だが、同時に……今夜お前がこの部屋にいるのはその間違いのおかげかも知れない。あれがなければ、もっとずっと、お前をここへ呼ぶのに遠回りしただろうから……」

​ 名前を間違えて、勝手に絶望して。人目も憚らず、あんなにも無様に泣いてしまわなければ。
 自分はこの真っ直ぐな瞳をした男に「好きだ」なんて、本音を剥き出しにすることはできなかっただろう。

​「……確かに、俺もそう思います」

 青木は薪の細い肩に顔を埋め、柔らかな髪に鼻先を滑らせた。

​「あなたが泣かなければ……俺は、自分の気持ちを伝えて、それをあなたが拒まなかっただけでも満足して、今日一日を幸せに終えてたかもしれない」

​ けれど、薪が泣いたから。今にも消えてしまいそうなほど、脆く崩れそうだったから。
 この人を今すぐ掴まえて、抱きしめて、体内の……奥深くまで入り込みたいと、心のどこかで願ってしまった。

​「でも、あなたが呼んでくれるその『一行』だけが、俺の、一番正しい名前な気がします」

 青木は、薪の耳たぶを甘く食むようにして囁いた。

「……もう一度、呼んでもらえますか。俺を、その名前で」

​ 薪は少しだけ照れたように身を縮め、けれど逃げることなく、確かな熱を込めてもう一度その名をなぞった。

​「一行。……僕の、一行」

​「や、やっぱやめてください。また火が点きそう……」

​ 青木が呻くように言いながら、薪の熱を帯びた首筋に唇を押し当てる。あまりに切実で、余裕のない声色に、薪はくすくすと肩を揺らして笑った。

​「なんだ。お前が呼べと言ったんだろう」

「言いましたけど! 予想を遥かに超えて……その、破壊力が、もう……っ」

​ 薪は肩をすくめて「そうか」と呟き、自分を閉じ込めている腕を、指先でいたずらに弄ぶ。
 自分の言葉一つ、吐息一つで、これほどまでに翻弄されるこの大男が、今は可愛くて仕方がない。

​ きっと、自分もあの一件で何かの糸が切れたままなのだ。だからこそ、こんなにも素直に、自分でも驚くような甘い言葉が口を突いて出る。

 けれど、明日になればきっと……またいつもの天邪鬼が頭をもたげ、理性の仮面を被り直すに違いない。 
 自分がそういう男であることを、薪自身が一番よく知っていた。

​「……いいのか?明日になれば、僕はまた鬼上司に戻るぞ」

​ 薪は少しだけ意地悪く目を細め、青木の髪を指で梳いた。

​「聞き納めかもしれないのに、黙っていいのか」

​ 誘うような、それでいて少しだけ突き放すような、薪らしい言い草。
 だが、青木は顔を上げると、確信に満ちた熱い眼差しで薪をじっと見つめ返した。あの、博多で見せた不敵なまでの“強さ”をすっかり取り戻して。

​「いいですよ。今は聞き納めでも」

​ 青木は薪の腰を引き寄せ、逃がさないと言わんばかりに深く、深く唇を重ねた。そして、吐息が混ざり合う至近距離で、低く笑う。

​「明日また、あなたがいつもの怖い薪さんに戻っても。……俺がまたいつかこうしてトロトロにして、何度でも言わせてあげますから」

​「……お前……っ」

​ 宣戦布告のように青木は悪戯っぽく、熱い目で薪を見つめた。あまりに直球な言葉に、今度は薪が言葉を失い、顔を赤く染める番だった。

​ 夜の静寂と暗闇に溶けていく戯れの囁きと、混ざり合う二人の体温。
​ ひとつの勘違いが加速させて繋がった恋は、朝が来るのを忘れるほどに、甘い熱の中で幾度も溶け合い、幸せな眠りへと変わっていった。
8/8ページ