よる博多→まよなか東京
「うん……美味いな、これ」
先ほどまでの悲壮感はどこへやら、薪は真鯛のマリネを一口ずつ、慈しむように咀嚼する。味がしないどころか、シトラスの爽やかな酸味が今の昂った心に気持ちよく沁み渡っていく。
「でしょう? 薪さんがお好きそうだな、って思って……いろんなレビューや写真を見て厳選したんですよ」
青木は嬉しそうに目を細め、追加のメニューを注文した。
「すみません、この『河豚白子のポワレ トリュフときのこ添え』を一つ。それと『彩り旬野菜の炭火風グリル』も」
運ばれてきたメインは、薪が好みそうな香ばしさとコクのある一皿だった。熱々のソースを纏ったポワレを口にした薪は思わずふっと相好を崩す。
青木は、薪が少食であることも熟知していた。
美味しいものを、ほんの少しずつ。満たされた薪が心地好さげに一息つくのを見届けると、青木は会計を済ませて静かに立ち上がった。
「薪さん……少し、歩きませんか」
その声は、驚くほど真剣だった。
誤解とはいえ、受け入れ難い現実を一人で抱えて地獄の底まで落ちていたこの愛しい上司を、今すぐにでもこの腕の中に閉じ込めたい――そんな衝動を必死に抑えている、切実な響きを纏っていた。
屋台の暖簾を潜り、夜の街へと踏み出す。
グラスワインを数杯嗜んだだけだというのに、薪の足元がふわりと覚束なく揺れて、隣を歩く青木の腕に肩がぶつかる。
「……おっと。薪さん、大丈夫ですか?」
「……ああ。少し、酔ったかもしれない」
普段ならこの程度の量で崩れる人ではない。それほどまでに、この数時間で心身を削りきっていたのだろう。
青木は胸の奥を締め付けられるような愛おしさに駆られて、ごく自然に、薪の冷えた手を力強く包み込んだ。
「あ……」
「危ないですから……座れる場所まで、このままで」
薪は、繋がれた手の熱に驚いたように瞬きをしたが、力を抜いてその大きな掌に己の指を絡める。
それぞれの、色んなテンポで行き交う人々の喧騒の中、二人だけが切り取られたような静かな歩調で進んでいった。
個性豊かなサインや街路樹の光を眺めながら、薪が小さく呟いた。
「……いい場所だな、博多は。お前の故郷は、温かい」
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。でも、実はこの界隈、俺もそんなに詳しくないんですけどね」
「……なんだ。地元だろう?」
「大学から東京に出ちゃいましたから。屋台デートなんて、あなたと来るために必死に調べただけなんですよ」
「ふ、そうか……」
青木の正直な告白に、薪が今日一番の柔らかな笑みを零した。
そしてたどり着いた警固公園。
柔らかな照明に照らされた静かな広場の石造りのベンチに並んで腰掛ける。
青木は待ち構えていたように、その細い肩を抱き寄せた。
「薪さん……すみませんでした。紛らわしい情報のせいとはいえ、まさかあなたがそんなに苦しんでいたなんて。お一人で、あんなにも……」
すっぽりと抱きしめられた上半身の至る所から伝わってくる青木の鼓動。
薪はしばらく無言だったが、やがて青木の腕に自分の手を重ね、消え入りそうな声で漏らした。
「……怖かったんだ。お前が、誰か別の人間と……僕の知らない世界へ行ってしまうことが」
そのあまりに剥き出しの告白が、青木の理性を容易く粉砕する。腕を緩めて覗き込んだ薪の瞳は、まだ涙の余韻で濡れていた。
「薪さん……」
「僕も、我儘だな」
「いいえ、嬉しいです。でも安心してください。俺はどこにも行きませんから」
青木は迷うことなく、その薄い唇に己の熱を重ねた。
博多の夜風に溶ける、初めての口づけ。
永遠に続くかと思われた静寂を破ったのは、青木のスマホが非情に告げた「最終便」のリマインド音だった。
「……っ、時間だな。……もう行かないと……」
名残惜しそうに身体を離そうとする薪を、青木は逃がさない。
「はい、薪さん。……俺も、一緒に行っていいですか?」
「は?」
青木はスマホを取り出し、画面を薪の目の前に突きつけた。そこには、確かに「二名分」の座席情報が並んでいる。
「実は最初から二席、押さえてたんです。それと、明日の休暇も承認いただけたらと。管区のメンバーにも、今日が俺の『勝負の日』になることはバレてますから。引き継ぎも万全です」
「お前というやつは、管区の連中にまで何を……。それに、仮に許可したとしても、いきなり東京へ来てどこに泊まるつもりだ。場所が……ないだろう?」
薪は慌てながらも、青木の計画の決定的な欠陥を突いたつもりだった。しかし、青木は不敵に、かつどこまでも甘く微笑む。
「……それは。今、あなたが頭に思い浮かべている場所で、俺は大丈夫ですよ」
「なっ……」
あまりに直球な言葉に、薪は言葉を失う。顔を真っ赤に染めて絶句する上司を、青木はさらに畳みかけるように覗き込んだ。
「手ぶらじゃ、休暇承認……できませんか?」
「…………当たり前だ」
「なら口頭でお願いします。……なんなら、さっきの続きでも……」
そう言って、青木が再びゆっくりと顔を寄せてくる。薪は、もはや逃げる気力も、意志も、持ち合わせてはいなかった。
「……お前というやつは……本当に……」
抗議の言葉は、二度目の、より深い口づけに吸い込まれて消えた。
数分後、福岡空港へ向かうタクシーへ、寄り添って乗り込む二人。
天神へ来たときには、こんな展開、少なくとも薪は想像すらしていなかった。
博多の短い夜が終わる。けれど、二人の本当の夜は、羽田へ向かうラストフライトの先で待っている――
先ほどまでの悲壮感はどこへやら、薪は真鯛のマリネを一口ずつ、慈しむように咀嚼する。味がしないどころか、シトラスの爽やかな酸味が今の昂った心に気持ちよく沁み渡っていく。
「でしょう? 薪さんがお好きそうだな、って思って……いろんなレビューや写真を見て厳選したんですよ」
青木は嬉しそうに目を細め、追加のメニューを注文した。
「すみません、この『河豚白子のポワレ トリュフときのこ添え』を一つ。それと『彩り旬野菜の炭火風グリル』も」
運ばれてきたメインは、薪が好みそうな香ばしさとコクのある一皿だった。熱々のソースを纏ったポワレを口にした薪は思わずふっと相好を崩す。
青木は、薪が少食であることも熟知していた。
美味しいものを、ほんの少しずつ。満たされた薪が心地好さげに一息つくのを見届けると、青木は会計を済ませて静かに立ち上がった。
「薪さん……少し、歩きませんか」
その声は、驚くほど真剣だった。
誤解とはいえ、受け入れ難い現実を一人で抱えて地獄の底まで落ちていたこの愛しい上司を、今すぐにでもこの腕の中に閉じ込めたい――そんな衝動を必死に抑えている、切実な響きを纏っていた。
屋台の暖簾を潜り、夜の街へと踏み出す。
グラスワインを数杯嗜んだだけだというのに、薪の足元がふわりと覚束なく揺れて、隣を歩く青木の腕に肩がぶつかる。
「……おっと。薪さん、大丈夫ですか?」
「……ああ。少し、酔ったかもしれない」
普段ならこの程度の量で崩れる人ではない。それほどまでに、この数時間で心身を削りきっていたのだろう。
青木は胸の奥を締め付けられるような愛おしさに駆られて、ごく自然に、薪の冷えた手を力強く包み込んだ。
「あ……」
「危ないですから……座れる場所まで、このままで」
薪は、繋がれた手の熱に驚いたように瞬きをしたが、力を抜いてその大きな掌に己の指を絡める。
それぞれの、色んなテンポで行き交う人々の喧騒の中、二人だけが切り取られたような静かな歩調で進んでいった。
個性豊かなサインや街路樹の光を眺めながら、薪が小さく呟いた。
「……いい場所だな、博多は。お前の故郷は、温かい」
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。でも、実はこの界隈、俺もそんなに詳しくないんですけどね」
「……なんだ。地元だろう?」
「大学から東京に出ちゃいましたから。屋台デートなんて、あなたと来るために必死に調べただけなんですよ」
「ふ、そうか……」
青木の正直な告白に、薪が今日一番の柔らかな笑みを零した。
そしてたどり着いた警固公園。
柔らかな照明に照らされた静かな広場の石造りのベンチに並んで腰掛ける。
青木は待ち構えていたように、その細い肩を抱き寄せた。
「薪さん……すみませんでした。紛らわしい情報のせいとはいえ、まさかあなたがそんなに苦しんでいたなんて。お一人で、あんなにも……」
すっぽりと抱きしめられた上半身の至る所から伝わってくる青木の鼓動。
薪はしばらく無言だったが、やがて青木の腕に自分の手を重ね、消え入りそうな声で漏らした。
「……怖かったんだ。お前が、誰か別の人間と……僕の知らない世界へ行ってしまうことが」
そのあまりに剥き出しの告白が、青木の理性を容易く粉砕する。腕を緩めて覗き込んだ薪の瞳は、まだ涙の余韻で濡れていた。
「薪さん……」
「僕も、我儘だな」
「いいえ、嬉しいです。でも安心してください。俺はどこにも行きませんから」
青木は迷うことなく、その薄い唇に己の熱を重ねた。
博多の夜風に溶ける、初めての口づけ。
永遠に続くかと思われた静寂を破ったのは、青木のスマホが非情に告げた「最終便」のリマインド音だった。
「……っ、時間だな。……もう行かないと……」
名残惜しそうに身体を離そうとする薪を、青木は逃がさない。
「はい、薪さん。……俺も、一緒に行っていいですか?」
「は?」
青木はスマホを取り出し、画面を薪の目の前に突きつけた。そこには、確かに「二名分」の座席情報が並んでいる。
「実は最初から二席、押さえてたんです。それと、明日の休暇も承認いただけたらと。管区のメンバーにも、今日が俺の『勝負の日』になることはバレてますから。引き継ぎも万全です」
「お前というやつは、管区の連中にまで何を……。それに、仮に許可したとしても、いきなり東京へ来てどこに泊まるつもりだ。場所が……ないだろう?」
薪は慌てながらも、青木の計画の決定的な欠陥を突いたつもりだった。しかし、青木は不敵に、かつどこまでも甘く微笑む。
「……それは。今、あなたが頭に思い浮かべている場所で、俺は大丈夫ですよ」
「なっ……」
あまりに直球な言葉に、薪は言葉を失う。顔を真っ赤に染めて絶句する上司を、青木はさらに畳みかけるように覗き込んだ。
「手ぶらじゃ、休暇承認……できませんか?」
「…………当たり前だ」
「なら口頭でお願いします。……なんなら、さっきの続きでも……」
そう言って、青木が再びゆっくりと顔を寄せてくる。薪は、もはや逃げる気力も、意志も、持ち合わせてはいなかった。
「……お前というやつは……本当に……」
抗議の言葉は、二度目の、より深い口づけに吸い込まれて消えた。
数分後、福岡空港へ向かうタクシーへ、寄り添って乗り込む二人。
天神へ来たときには、こんな展開、少なくとも薪は想像すらしていなかった。
博多の短い夜が終わる。けれど、二人の本当の夜は、羽田へ向かうラストフライトの先で待っている――