よる博多→まよなか東京

 二人の目の前のクリスタルのグラスの中で、白ワインが繊細に揺れている。
 グラスを合わせ一口含めば、鼻を抜けていく爽やかな果実の香りが……今の薪にはまったく感じられず、味のない氷水に等しい。

​「……薪さん? お口に合いますか?」

​ 覗き込む青木の瞳は、混じりけのない優しさに満ちている。
 その声音があまりに柔らかくて、あまりにいつも通りで――張り詰めていた薪の心の糸が、ぷつんと音を立てて切れた。

​「……っ」
​ 視界が不意に歪み、涙の雫が頬を伝ってぼろぼろと零れ落ちていく。

​「えっ……どうしました?」

​ 青木が驚きつつすぐさまハンカチを差し出した。
 触れ合う距離で寄り添い、そっと背中に置いた手が、あやすように優しくゆっくりと撫ではじめる。

​「……っ、さわるな……」

「すみません、でも……」

​ 背中から伝わる青木の大きな手のぬくもりが、余計に薪を惨めにする。密かにときめいていたこの温もりにも、もう、身を預けることはできなくなるのだ、と思うと、自暴自棄な気持ちにもなる。

​「話、とはなんだ。さっさと話せ」

「いや……今日は、やめておこうかな。薪さん、少しお疲れのようですし……」

​ 気持ちは昂るばかりだが、無理に告白して薪を困らせたくもない。そんな青木の気遣いも、薪には“重大な結婚報告”もしくは“鬼上司への仲人依頼”を躊躇しているようにしか見えない。

 そこへ、シェフが「特別メニューです」と、二人の前に皿を置いた。
 博多名物の真鯖を上品なマリネにし、シトラスのジュレを添えた、宝石のような一皿だ。

​(僕の好みを網羅して、そんなに追い詰めないでくれ)

​ 薪は皿を睨みながら、震える声を絞り出した。

「……いや、聞きたい。話せ。青木」

「そうですか?」

​ 途端に青木の顔がパッと輝く。その嬉々とした表情が、薪の胸をさらに抉る。

​「じゃあ、単刀直入に言いますが……」

「ま、待て!」

「えっ……はい!」

​ 薪は震える手でワイングラスを置き、膝の上で拳を握りしめて深く、深く呼吸をした。
 断頭台の露と消えるとしても、せめて「上司」としての威厳だけは、最期まで守り抜かねばならない。

​「……よし。……話せ」

「あ、はい。……あの、実は俺、薪さんのことが……」

「わかっているッ! 結婚だろう!」

「……えっ?」

​ 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で青木が固まった。

「あの……け、結婚してくださるんですか?」 

「はあ?今更 何を言っているんだ、するつもりなのはお前の方だろう?」

「そ、そりゃ……したいですよ! あなたさえよければ、ぜひっっ!」

​「仲人の僕に是非を聞くのか!? 酷すぎる!あんまりだ!なら僕が『お前が好きだからやめろ』と言えば……やめて……くれるとでも言うのか……っ」

​ 激情のままに溢れる言葉。薪の瞳から再び涙が零れ、震える肩を自ら抱きしめて俯くその姿は、あまりにも痛々しい。

​「……あの……薪さん、さっきから話が噛み合ってないような。仲人って……何ですか?」

「……しらばっくれるな! 捜査員たちが廊下で話してるのを聞いたんだ。一行が結婚するから、所長に仲人を頼むと!」

​「…………はい?」

​ 青木は数秒、完全に思考を停止させた。イッコウ? 仲人?
 そして、ある可能性に辿り着いて、呆然としながら呟いた。

​「ああ……あの、薪さん。それ、イッコー違いです。南警察署の『一甲(いっこう)秀幸』巡査が結婚するんで、出会いのキッカケになった署長に仲人を頼むって話かと。ご存じの通り俺も、青木一行(いっこう)なんですが……」

​「…………」

​ 今度は薪が固まる番だった。
 一甲と、一行。
 耳をそばだてて聞いたあの噂話が、恐ろしいほどの速度で脳内を逆再生されていく。

​「薪さん?」

「……でも、だったら、どうして……あんなに……嬉しそうに……」

「それは俺、今日こそ薪さんに告白しようと思って、滅茶苦茶気合入ってたからで……!」

「!!」

​ ​両手で顔を覆う薪の指先が、目に見えて震えている。
 先ほどまでの悲壮感に満ちた空気はどこへやら、屋台の狭いカウンターには、熱に浮かされたような、甘く煮え切らない沈黙が立ち込めていた。

​「……ていうか、薪さん。さっき……俺のこと『好きだ』って言いませんでした?」

​ 意地悪く、けれどこの上なく愛おしそうに囁く青木。その顔を薪は見ることができない。
 
​「……っ、聞こえない。……何も、言ってない」

​ 蚊の鳴くような声で必死の拒絶を試みる。だが、青木は逃がしてはくれない。

「言いました。はっきり聞こえましたよ。『お前が好きだから』って。……いいですか、薪さん。俺は言われるまでもなく、あなた以外誰も見てませんし、この先興味をひかれることもないです。生涯あなたにしか、心を動かされることはありません」

 ぐい、と顔を覗き込もうとする青木の熱い視線から逃げるように、薪はますます顔を伏せた。耳まで真っ赤に染まり、震える肩を抱くその姿は、先ほどまでの悲壮な覚悟が嘘のように脆く、愛らしい。

​「だから、俺と付き合ってください。薪さん」

​ 真っ直ぐな、一点の曇りもない言葉。
 薪は頷くように俯くと、震える手で、放置されていたグラスを再び手に取った。

 二度目に含んだワインは、室温に馴染んで少しぬるくなっていたが、さっきよりもずっと芳醇な果実の甘みが、乾いた喉と心に深く、優しく染み渡った。
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