よる博多→まよなか東京

「……でさ、ショチョーに仲人を頼むって息巻いてたからな」

「へぇ~今どき仲人って、イッコーさんもカタイよなあ」

「やー、でもあの人、ショチョーのこと兄貴分のように慕ってたから……」

​ そこから先の言葉は、笑い声とともに遠のく足音にかき消された。

 静まり返った室長室で、薪は凍りついたように立ち尽くしている。

 急速に血の気が引き、代わりに耳の奥で、ドクドクと不快な心音がうるさく響き始める。

​――大事な話があるんです。
――今夜、あなたと二人で話したいんです。

​ 真摯に自分を引き止めた、あの青木の熱量を思い出し、薪は激しい羞恥心に襲われた。
 あの眼差しを、あの強引な誘いを、自分への特別な情愛の裏返しだと……一瞬でも期待し、浮かれてしまった自分がたまらなく惨めで、愚かしく思えた。

​(……所長に仲人、か。……そうか。青木、お前は……)

​ ようやく、すべての点と線が繋がった。
 強引に誘われた屋台、最終便のチケット、改まった「大事な話」。
 すべては、人生の門出となる重大な報告を、敬愛する上司へ礼を尽くして行うための準備だったのだ。それこそ半ば親代わりのように思って。

​ 一時期は、青木や部下たちに向かって「結婚しろ」「家庭を持て」と、口を酸っぱくして命じていたのは、他でもない自分だ。孤独な捜査員の末路を嫌というほど見てきたからこそ、次世代の彼らには人並みの幸せを掴んでほしかった。

 ならば今、目の前にあるこの状況は、心から望んだ「部下の最良の結末」じゃないか。
​ 薪は、まだ青木の温もりが残る椅子へ、力なくゆっくりと腰を下ろした。

​ 喜んで、祝福してやるべきだ。青木に相応しい、明るく温かな家庭を築く相手が見つかったのなら。
 仲人でも何でも引き受けて、その背中を力強く押してやるのが、上司としての役目だ。が、しかし……

 
​「仲人……」

​ 唇から零れた呟きは、ひどく苦く、重かった。
 引き受けるとしても、ひとつの現実的な問題が薪の胸を深く刺す。
 一般的に、仲人は夫婦で務めるものだ。家族を亡くし、伴侶もいない天涯孤独の自分に、果たしてその資格があるのだろうか。

​ 窓の外、博多の空は刻一刻と深い夕闇に沈んでいく。
 まるで今夜の屋台が自分にとっての断頭台であるかのように、薪は静かに“終わり”を待つ心地で、青木の帰りを待っていた。

​「薪さん、お待たせしました!!」

​ 主人の元へ一心不乱に戻ってくる大型犬のように、全身で喜びを表現しながら、青木が室長室のドアを開けて現れた。
 その顔は今まで見たことがないほど高揚し、自信と喜びに満ち溢れている。

 ヤマを片付け、いよいよ“決戦”へ向かう男の顔。だが、今の薪には、それが“幸せな未来を夢見る新郎”の顔にしか見えなかった。

​「……遅かったじゃないか」

​「すみません! でも、おかげで準備は完璧です。さあ、行きましょう。薪さんを最高の席へご案内します」

​ 青木は至極嬉しそうに、薪の背中にそっと手を添えた。
 いつもなら「馴れ馴れしい」と一蹴するはずの接触も、今日だけは……巣立っていく雛鳥が最後に見せる甘えのように感じられて、どうしても振り払うことができない。

​「歩いても行けるんですが、今日は特別に」と、正面玄関に待たせていたタクシーに滑り込む。

​「お腹、空きましたね」

​ 隣に座る青木が、こちらの顔を覗き込むようにして破顔した。
 その無邪気で真っ直ぐな、自分だけに向けてくれている――と、これまでは思い込んでいた笑顔。それが酷い勘違いだったと知った今でも、愛おしく思えてしまう自分が悔しかった。

​ 胸の奥で音を立てて崩れていく何かを必死に押し殺し、薪は唇を噛み締め、頑なに窓の外を見つめ続けた。
 辛くて、苦しくて、視界が滲んでしまいそうだ。
 けれど、隣で健気に張り切っている青木を見ていると、彼を育て、守り、送り出す立場として、暗い顔など見せるわけにはいかなかった。

​「……うん、楽しみだ」

​ 薪は、精一杯の慈しみで、静かな微笑みを作った。

​ タクシーが、交差点の一角で静かに停車する。
 青木に導かれて車を降りると、そこには屋台という概念を覆すような、洗練された空間がこぢんまりと佇んでいた。
 既に席は満杯。
 白い暖簾を潜れば、木の温もりを活かしたカウンターの向こう、磨き上げられたワイングラスが星のように輝いている。

​「さあ、薪さん。こちらへ」

​ 青木はどこまでも紳士的に、薪を一番奥の特等席へとエスコートした。
 肩が触れ合うほどに狭い、けれど心地よい距離感。普段ならこの密着感に心を跳ね上げていたはずなのに、今の薪にとっては、この近さがかえって残酷な“決別”の儀式のように感じられた。

​「まずは乾杯といきますか。……薪さん、今日は最高の白が入ってるみたいですよ」

​ そう言って、嬉しそうにリストを広げる青木の横顔を、薪は静かに見つめた。
 自分に似合う銘柄を熱心に探している、その真剣な眼差し。
 かつては自分のためだけに注がれていたはずの熱意が、今夜を境に、自分ではない“誰か”のものになるのだと思うと、胸が千切れそうになる。

​(……そんなに嬉しそうな顔をするな。僕に、仲人を頼むつもりなら……)

​ 薪は、喉の奥まで出かかった呜咽を辛うじて飲み込み、痛いくらいに澄んだ青木の瞳から逃げるように、目の前に置かれた空のグラスへと視線を落とした。
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