Safety〜連行
セーフハウスの室内には、湿り気を帯びた熱と、微かな消毒液の匂いが漂っている。
ベッドに横たわった青木は、時折苦しげに眉を寄せながらも、薪の気配を感じるたび、幸せそうに頬を緩めている。その様子を見る限り、病院へ担ぎ込むほどの深刻な事態ではないのだろう。
縫合後の傷口も少し赤みを帯びているだけで、離開や化膿の兆候はない。薪は安堵して、綿球を操っていたピンセットを処置トレイに戻した。
緊急宿泊用のクローゼットを探れば、青木の体格に合うサイズの着替えもちゃんと揃っている。
薪は消毒のために半開させていたシャツのボタンをすべて外して、汗で湿った上衣を剥いだ。
青木の表情は穏やかだが、体調自体は芳しくないようだ。
用意した濡れタオルを手にした薪が、若い部下の眼鏡を外して額を拭おうとした、その時。
PiPiPi――
無機質な着信音が、室内の静寂を切り裂いた。
表示された『岡部』の文字に、薪は眉をひそめて通話ボタンをタップする。
「……何の用だ、こんな時間に」
『薪さん。お疲れ様です。……どうでした? 青木の様子は』
電話越しの岡部の声は、どこかこちらの動揺を見透かしているような、妙な明るさを帯びてきこえる。
薪はすぐ傍らで熱に浮かされている青木の寝顔を盗み見ながら、努めて平坦な声を出した。
「……確保はした。体調が優れないようだし、しばらくの間、僕の監視下に置く」
『……監視下、って何処なんです? 青木は休むの嫌がりそうだし、どうせ軟禁まがいの……』
「違うっ、看病だ!」
薪は慌てて否定し、言葉を継いだ。
「いや、看病もだが……僕が主導して捜査も続行する。無理はさせないようにするから、大丈夫だ」
一瞬の間のあと、電話の向こうで岡部が鼻を鳴らす気配が伝わる。納得したのか、あるいは呆れられたのか。
『なら、場所を教えてくださいよ。明日差し入れでも届けますから』
「差し入れ……だと?」
『ええ。弱ってるなら精をつけないと。滋養強壮に効くやつ送りますよ。マムシのドリンクとか、スッポンのサプリとか……あいつ若いんだし、すぐ元気になりますって』
「……はぁ?」
岡部が無神経な親切心で言っているのか、それとも何かを意図しているのかは分からない。だが、今まさに青木のシャツを脱がせて、熱を帯びた肌を目の前で剥き出しにしている薪にとって、その言葉はあまりに卑猥で、疚しい響きを伴い鼓膜を激しく打った。
「余計なお世話だ! とにかく、こいつは僕がみる。お前はとっとと自分の仕事に戻れ!」
逃げるように通話を切り、薪は手の中の携帯を処置台に放り出した。
静寂が戻った室内で、薪は肩を激しく上下させ、息苦しいほど高鳴る胸を押さえて深呼吸する。
ただの部下の看病だ。それだけのことに、なぜ自分はこれほどまでに追い詰められているのか。
「全く……マムシだの、スッポンだの……下品極まりない……」
赤くなった頬を隠すように毒づき、青木の身体を再び拭き始めた、その時だった。
「……すっぽん……?」
掠れた、けれど聞き間違えようのない声が届く。
弾かれたように顔を上げると、いつの間にか青木が薄く目を開け、力なく薪を見上げていた。
「薪さん……俺……スッポン食べなきゃいけないほど……重症、なんですか……?」
「青木……っ、起きたのか」
薪は激しく狼狽した。不用意な言葉を拾われるとはタイミングが悪すぎる。
青木はぼんやりとした様子で、半裸の自分の胸元と、濡れタオルを握った薪の手を交互に見つめる。
「……すみません、また……ご面倒を、かけて……」
「いいから寝ていろ。岡部が、お前に変な差し入れをするとか言うから、断っておいただけだ」
努めて冷淡に突き放すつもりが、近すぎる距離がそれを阻む。
動揺する薪の手首を、青木の手が弱々しく、けれど確かな力で掴んだ。
「よかった……幻じゃ、なかった……」
「……」
「あなたの怒鳴る声が聞こえて……ああ、やっぱり、薪さんだって。夢の中でも、あなたは……俺に怒ってくれるんだって、思ったら……」
ふ、と青木の唇が、心底幸せそうに綻んだ。
「……馬鹿だな、怒ってなんかない。だから、そんな顔で笑うな」
薪は身体を離そうとしたが、青木の熱い指先が、薪の腕を掴んできて逃げることができない。
「……薪さん。あの手紙……すみませんでした。あんなに、一方的な想いを綴った……今思えば、プロポーズやラブレターのようなものを、いきなり上司のあなたに送りつけるなんて……」
あえて遠回りしていた核心を唐突に突かれ、部屋の空気は一気に甘く、重く、二人の距離を密着させる。
「……ラブレター、だと? 随分と可愛らしい言い換えをするんだな」
薪は、捕らえられた自分の手をさらに上から強く握り込み、震える吐息を絞り出した。
「僕にはあれが、お前の人生のすべてを地獄に投げうつ、狂気の『所信表明』に見えたがな。自分の人生をあんなに気軽に他人に差し出すもんじゃない。……僕が、どれほど……」
続く言葉を、薪は辛うじて呑み込んだ。
この身に流れる呪われた血、この手で奪った命。そして自分の傍にいたがゆえに奪われた、青木の愛する肉親たちの命までも。この男は身をもってその呪いを受けたのだ。それなのに、なぜ?
「……お前、正気なのか? 僕の隣がどんな地獄か、分かっているはずなのに。僕に関わって無傷でいられる人間なんて、この世には……いない……」
自責の念に震える薪の声。だが、青木は絡めた指を解こうとはせず、むしろ熱を分かち合うように強く握り返してくる。
「……俺が一緒でも、そこは地獄ですか?」
真っ直ぐな問いが、薪の胸を貫く。
「俺はあなたと一緒にいられるなら、地獄だろうと全く構わないです。……薪さんと同じ場所にいさせてください」
ベッドに横たわった青木は、時折苦しげに眉を寄せながらも、薪の気配を感じるたび、幸せそうに頬を緩めている。その様子を見る限り、病院へ担ぎ込むほどの深刻な事態ではないのだろう。
縫合後の傷口も少し赤みを帯びているだけで、離開や化膿の兆候はない。薪は安堵して、綿球を操っていたピンセットを処置トレイに戻した。
緊急宿泊用のクローゼットを探れば、青木の体格に合うサイズの着替えもちゃんと揃っている。
薪は消毒のために半開させていたシャツのボタンをすべて外して、汗で湿った上衣を剥いだ。
青木の表情は穏やかだが、体調自体は芳しくないようだ。
用意した濡れタオルを手にした薪が、若い部下の眼鏡を外して額を拭おうとした、その時。
PiPiPi――
無機質な着信音が、室内の静寂を切り裂いた。
表示された『岡部』の文字に、薪は眉をひそめて通話ボタンをタップする。
「……何の用だ、こんな時間に」
『薪さん。お疲れ様です。……どうでした? 青木の様子は』
電話越しの岡部の声は、どこかこちらの動揺を見透かしているような、妙な明るさを帯びてきこえる。
薪はすぐ傍らで熱に浮かされている青木の寝顔を盗み見ながら、努めて平坦な声を出した。
「……確保はした。体調が優れないようだし、しばらくの間、僕の監視下に置く」
『……監視下、って何処なんです? 青木は休むの嫌がりそうだし、どうせ軟禁まがいの……』
「違うっ、看病だ!」
薪は慌てて否定し、言葉を継いだ。
「いや、看病もだが……僕が主導して捜査も続行する。無理はさせないようにするから、大丈夫だ」
一瞬の間のあと、電話の向こうで岡部が鼻を鳴らす気配が伝わる。納得したのか、あるいは呆れられたのか。
『なら、場所を教えてくださいよ。明日差し入れでも届けますから』
「差し入れ……だと?」
『ええ。弱ってるなら精をつけないと。滋養強壮に効くやつ送りますよ。マムシのドリンクとか、スッポンのサプリとか……あいつ若いんだし、すぐ元気になりますって』
「……はぁ?」
岡部が無神経な親切心で言っているのか、それとも何かを意図しているのかは分からない。だが、今まさに青木のシャツを脱がせて、熱を帯びた肌を目の前で剥き出しにしている薪にとって、その言葉はあまりに卑猥で、疚しい響きを伴い鼓膜を激しく打った。
「余計なお世話だ! とにかく、こいつは僕がみる。お前はとっとと自分の仕事に戻れ!」
逃げるように通話を切り、薪は手の中の携帯を処置台に放り出した。
静寂が戻った室内で、薪は肩を激しく上下させ、息苦しいほど高鳴る胸を押さえて深呼吸する。
ただの部下の看病だ。それだけのことに、なぜ自分はこれほどまでに追い詰められているのか。
「全く……マムシだの、スッポンだの……下品極まりない……」
赤くなった頬を隠すように毒づき、青木の身体を再び拭き始めた、その時だった。
「……すっぽん……?」
掠れた、けれど聞き間違えようのない声が届く。
弾かれたように顔を上げると、いつの間にか青木が薄く目を開け、力なく薪を見上げていた。
「薪さん……俺……スッポン食べなきゃいけないほど……重症、なんですか……?」
「青木……っ、起きたのか」
薪は激しく狼狽した。不用意な言葉を拾われるとはタイミングが悪すぎる。
青木はぼんやりとした様子で、半裸の自分の胸元と、濡れタオルを握った薪の手を交互に見つめる。
「……すみません、また……ご面倒を、かけて……」
「いいから寝ていろ。岡部が、お前に変な差し入れをするとか言うから、断っておいただけだ」
努めて冷淡に突き放すつもりが、近すぎる距離がそれを阻む。
動揺する薪の手首を、青木の手が弱々しく、けれど確かな力で掴んだ。
「よかった……幻じゃ、なかった……」
「……」
「あなたの怒鳴る声が聞こえて……ああ、やっぱり、薪さんだって。夢の中でも、あなたは……俺に怒ってくれるんだって、思ったら……」
ふ、と青木の唇が、心底幸せそうに綻んだ。
「……馬鹿だな、怒ってなんかない。だから、そんな顔で笑うな」
薪は身体を離そうとしたが、青木の熱い指先が、薪の腕を掴んできて逃げることができない。
「……薪さん。あの手紙……すみませんでした。あんなに、一方的な想いを綴った……今思えば、プロポーズやラブレターのようなものを、いきなり上司のあなたに送りつけるなんて……」
あえて遠回りしていた核心を唐突に突かれ、部屋の空気は一気に甘く、重く、二人の距離を密着させる。
「……ラブレター、だと? 随分と可愛らしい言い換えをするんだな」
薪は、捕らえられた自分の手をさらに上から強く握り込み、震える吐息を絞り出した。
「僕にはあれが、お前の人生のすべてを地獄に投げうつ、狂気の『所信表明』に見えたがな。自分の人生をあんなに気軽に他人に差し出すもんじゃない。……僕が、どれほど……」
続く言葉を、薪は辛うじて呑み込んだ。
この身に流れる呪われた血、この手で奪った命。そして自分の傍にいたがゆえに奪われた、青木の愛する肉親たちの命までも。この男は身をもってその呪いを受けたのだ。それなのに、なぜ?
「……お前、正気なのか? 僕の隣がどんな地獄か、分かっているはずなのに。僕に関わって無傷でいられる人間なんて、この世には……いない……」
自責の念に震える薪の声。だが、青木は絡めた指を解こうとはせず、むしろ熱を分かち合うように強く握り返してくる。
「……俺が一緒でも、そこは地獄ですか?」
真っ直ぐな問いが、薪の胸を貫く。
「俺はあなたと一緒にいられるなら、地獄だろうと全く構わないです。……薪さんと同じ場所にいさせてください」