Safety〜連行

 深夜便の機内、微かなエンジン音だけが律動する静寂の中。薪は読書灯の小さな明かりの下で、手紙を広げていた。
 迷いのない、真っ直ぐな筆致。
 無垢な魂をそのままぶつけるような、あまりに誠実で愚直な青木の文字。

(……こんなものを見せられて、正気でいられるはずがないだろう)

 胸の奥が、締め付けられるように熱い。
 “家族”の文字を指でなぞると、薪の心臓は、熱に浮かされたように不規則な鼓動を刻んだ。

​ 毎日話す相手。
 ほんの少しの時間でも毎日過ごす人。
 そういう相手に……青木は他でもない僕を望んでくれた。

​ 一度は闇に葬りかけた想いが、今また、甘い毒のように薪の全身を駆け巡っている。

(全く、身の程知らずな男だ……僕を誰だと思っている)
 
 これほど無垢で、膨大な愛を投げかけられて、どうして逃げ切れるなどと思ったのか。
 「幸せ」という言葉が、血塗られた自分の人生に馴染むとは思えない。だが、もし、傷つき倒れようとしているあいつをこの腕に閉じ込め、二度と離さないことが「幸せ」に近い何かであるとするならば――薪は、握りしめた拳の震えを隠すように、深く座席に身を沈め、深いため息をついた。

 暗い窓を見つめれば、絶望の淵にいる青木の顔が浮かび、目的地までの時間をやけに長く感じさせる。
 薪は、迷いを焼き尽くした後の、静かな狂気を宿した瞳をそっと閉じ、長い息を漏らして堪えた。


 そして降り立った福岡。
 辿り着いたのは、深夜の公園の広大な敷地内。
 第八管区の庁舎は深い闇に沈んでいた。唯一、室長室の窓から漏れる青白い光が、そこだけ時間の止まった墓標のように見える。
 薪は足音を殺し、自動扉を抜けてその部屋へ踏み込んだ。

​「……青木」

​ デスクに突っ伏した大男の影を見つけた瞬間、薪の心臓は別の意味で跳ねた。
 土気色の顔、額に浮いた脂汗。無理な退院の後、睡眠を削って傷の痛みすら「仕事」という劇薬で麻痺させているのは明白だった。

​「……あ……すいません……お疲れ様です……」

​ 守衛の巡回だとでも思っているのだろう。
 青木は近づく気配に一瞥もせずにディスプレイを見つめ、震える指でボードを操作し続けている。

(なぜだ……。なぜそこまで自分を痛めつける。僕に拒絶された空白を、仕事で埋めようとでもしているのか?)

 薪の胸は、怒りと、それ以上の悲しみで一杯になった。
 だがそれをひた隠し、冷徹な「所長」の仮面を被りなおして、青木の肩を強く掴む。

​「青木 」

​「……え……? まき、さ……?」

​ 眼鏡の奥の焦点の合わない瞳が、薪を映して微かに揺れる。

「あ、れ……幻、ですか……俺、まだ、あなたに会えるほど、成果も何も……」

​ 青木の乾いた唇が震える。その一言が、薪の胸を抉った。
 会う資格すら自分にはない、と思っていたのだろうか。あの手紙を無視されたせいで?

​「誰が、こんな無理をしろと言ったッ!」

​ 薪の怒号が響く。衝動に任せて青木を抱きかかえようとするが、三十センチ近い身長差と負傷した大男の自重が、薪の細い腕の言う事をきかない。

​「ま、薪さん……? 何を……俺まだ、仕事が……」
​「うるさい、どけ!」

​ 抱き上げるのを即座に諦め、薪は青木の座る椅子のキャスターを力任せに蹴り出した。

 机から水平移動で引き離されていく青木が呆然とする中、薪はディスプレイを凝視し、瞬時に捜査状況を読み取った。

​「……ふん、確かに難しい局面だな。ここからは僕がやろう」

​「ええ、でもそれ、もう少しで……」

​「お前はこの事件の重要な証人として、僕が身柄を確保する」

​「え……? 公務なんですか……?」

​「そうだ“僕の公務”だ。つまりお前が僕の前から消えることは、公務執行妨害だからな」

​ 理不尽な独占欲を公私混同で塗りつぶし、薪は青木の腕の下に潜り込んだ。
 そして大きな身体を自分に預けさせ、無理やり立ち上がらせせる。

​「イテテ……っ、薪さん、どこへ……」

​「警察幹部の監視下にあるセーフハウスだ。そのまま連行する」

​「え、セーフ……?」

​「喋るな。舌を噛んだらどうする」

​ 肩を貸す薪の全身に、青木の重みと、傷の痛みに耐える熱い吐息がのしかかる。
 それは、薪がずっと渇望していた“青木の存在”そのものだった。
 
 行き先は外界から遮断された、二人だけの箱庭だ。
 薪は青木を支える腕に力を込め、暗い廊下へと踏み出した。
 が、広い廊下の途中で、青木がよろめき苦しげに足を止める。

​「……薪さん、まさか……歩いて運ぶ気ですか?待って、守衛にタクシーを呼ばせますから……」

​ 「いいから黙れ」と制する間もなく、青木は廊下の長椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。薪もその大きな身体に引きずられるように隣へ沈み込む。
 青木は即座に震える手で携帯を取り出し、配車の指示を出している。
​ 
​「なんだ、急に室長ぽいな」

​「……いや、室長ですから、俺」

​ 電話を切った青木が、弱々しく笑って、そのまま薪の肩に深く頭を預けてきた。
 熱く、重く、確かな生命の感触。

​「……大丈夫か」

​「……はい。こうしてるだけで、生き返る心地がします……」

​ うわ言のような囁きだったが、それは紛れもなく、薪が渇望していた、青木の生々しい“言葉”だった。

 “酷い仕打ちをした僕を、まだ、こんなにも必要としてくれている”
​ 愛おしさが、逆立つ心を滑らかにしていく。
 薪は自分を頼る大きな身体をぎゅっと抱きしめた。
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