夢現のよる

 憧れの上司と二人きりのコテージの夜。
 はじめは和やかで、上々の滑り出しだった。

「ふ〜ん。これが“つんつるてん”というやつか」

 浴室から丈の足りない作務衣で出てきた青木を、先にシャワーと着替えを済ませた薪が、笑みを噛み殺して上から下まで眺めている。

「楽しんでいただけて光栄です。なんか薪さんの着てるものと同じ服には見えませんね」

「うん、確かにな」

 いつもなら“僕が小さ過ぎると言いたいのか”などと即座に言いがかりをつけてきそうなものだが、今日は機嫌よくスルーだ。


「どうぞ。おにぎりは一つずつありますので」

「僕はいい。お前が全部食べろ」

「ええっ、薪さんも少しは食べなきゃお腹空いちゃいますよ」

「いや、いい。これがあるから」

 薪がナッツの袋を破って器にあけるから、青木も慌ててワインの栓を抜く。
 備え付けのプラスチック製グラスを合わせ、口に含んだのは、日本ワインの白。
 柑橘のアロマとバニラの香りが混じる鮮度の高い果実味が、今、この瞬間の瑞々しい高揚感にとてもマッチしていた。

「薪さん、やっぱ少食過ぎますって」

「いや、そのぶん呑むから大丈夫」

 綺麗な指に摘まれたカシューナッツが、艶かしく開いた唇へと運ばれる。直後に含んだワインと一緒に口内で転される動きに息を呑む青木は、片時も目を離すことができない。
​ カシューナッツがワインのバニラと結びつき、薪の舌の上で極上のバターにのように蕩ける――そんな様子が、うっとりした薪の瞳を見るだけで手に取るようにわかるのだ。
 めちゃくちゃ美味しそう。
 何なら唇ごとそのバターを味わいたいくらい……って、えっ??俺今なんて事を!!!
 口をついて出そうになった言葉を握り潰して、青木は慌てて別の会話を引っ張り出す。

「ま、薪さん、そんなに木の実ばかりもぐもぐしてるとリスになっちゃいますって」
 
「フン、さすがにそこまで小さくないぞ」

 青木の声のヘンな上擦りを察した薪は、無意識に動揺して顔を逸らした。

 空気が一転したのはそこからだ。


「っ、こっちばかり見るな」

「見てるってなんでわかるんです……てかあなた飲酒のペースが速すぎですって」

 さっきから体ごと顔を背けたままワインをがぶ飲み。
 急にやけ酒みたいな飲み方になってしまった薪の行動の原因はわからないが、とにかく心配で目を離せない。いや本当に目が離せないのは色づいた細いうなじと、ちらりと覗く横顔の艶めかしい美しさからだけれど――

「酔った。寝る」

 無理矢理テーブルを離れてふらつく身体を支えようと手を伸ばせば、手を添えた細い腰のしなやかさにドキリと鼓動が高鳴る。
 身を捩りすり抜けようとする薪を腕の中に閉じ込めると、ワインのアロマが混じっで漏れる吐息や、上気した肌から匂い立つ芳香が鼻腔を擽るから、思わず強く抱きしめて深く吸い込んでしまう。

 呼吸しながら鼻先や唇で後頭部をまさぐられているのは、当然薪にも伝わっている。
 首元を覆い背中まで回った長い腕の質量と温もり。
 完全に捕えられているのに優しく撫でる指先の動きに、抗う力も抜けて動けない。

「俺……この部屋に、見覚えがあります」

 天然なのか、したたかなのか。
 薪に憧れ第九に入って一年半の間近く、濃厚な空気を吸って育った若者が、心まで揉みほぐすような声で“特別なキーワード”を耳元から送り込んでくる。

「彼女さんと彗星を観に来て……そのもっと前に来た時は、ここで薪さんと楽しくはしゃいだりもして……」

 これは鈴木の脳の話だ。
 薪はゆっくり目を閉じて、脳が繋ぐ接点から紡がれる親友の話に意識を傾けた。

「……なぜそんな昔の画をお前が知ってる? 僕が鈴木とここへ来たのは学生時代の話だぞ」

「思い出の画でしょうか。薪さんが表情豊かで楽しそうで……でもそれ、俺も思うんです」

「……何……を?」

 昼間の痛みが優しくぶり返した薪は、声にならない声で訊き返しながら、青木の胸に顔を埋めた。

「あなたが日頃何を背負っていようと、こんな時くらいは荷物をおろして……笑っていてほしいと……」

 その答えに、また溢れた涙をひとしきり流す。

 親友の言葉を代弁し、それに重ねて自分の思いを囁く部下の声に、まるで傷口を優しく愛撫されている気がしたのだ。
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