俺とあなたの5.5日間
4 - M - 2
定時の終業時間を過ぎた男性用トイレの出入口から、ヒールの鋭利な足音が近づいてくる。
僕の目に触れないよう最大限の距離感で対応できるようになったSPに、数日ぶりに苛つきを覚える。
入る前の安全確認のうえ、僕が出てくるのを近くで待機しているはずのSPが、この期に及んで何故不審者を通すのか、と――
「つよし君」
「あなたここが何処だかわかってるんですか?」
洗面台の鏡越しの雪子さんに冷めた視線をやりながら、僕は訊ねる。
「ええ。今はつよし君と話せるプライベート空間。SP見張り付きのね」
「そんな都合のいい場所はありませんよ、ここはトイレです。それも男性用の」
あの木偶の坊SPめ……打たれ強くて控えめで任務に忠実な奴かと思いきや、女性に甘い欠点があったとは、見損なったぞ。
内心舌打ちする僕に、雪子さんは機嫌よく話を続ける。
「あなたのSP良い人ね。物陰から襲われそうになったから、つい癖で腕を捻りあげちゃったんだけど……謝ったら許してくれたし、中に誰もいないし二人で話してる間、見張っててくれるだなんて」
いや、襲ってはないだろうし過剰防衛を“癖”の一言で片付けられては困る。
そしてSPが対象以外の見張りの依頼を、部外者から勝手に受けただと?
それが本当なら聞き捨てならない。
「仰ることが事実なら、そいつは即刻クビですね」
僕の返しに雪子さんは青ざめた。
「えっ、ごめん! ホントは私が黒田さんに見張りを頼み込んだの。私はつよし君の親友だし決して悪いようにはしないからって……だってあなたあれからずっと私を避けてるじゃない。遠くで見守ってるくせに」
「そんなことしてないし、何勝手なことを……」
呆れながらも、僕は不思議な違和感をおぼえていた。
彼女は他人に貸しを作ることはあっても、見知らぬ相手から簡単に借りを作る人間ではない。
しかも個人名まで出てきている。
名前を聞き出したり覚えるのだって得意じゃないはずなのに……
「そういや青木くん変わったよね。あんなセクシーでワイルドな男じゃなかったのに、ここ数日で急にどうしたのかしら?」
今度は僕がギクリと身を竦める番だ。
青褪めて泳がせた視線が、彼女の左手薬指に嵌められた指輪でつい止まる。
「あ、これは心配しないで。もう次から外すから。私もスガちゃんに話して当たり障りなく拡散してもらったことだし。あ〜スッキリした」
血の気が引いたままの僕を、親愛の情を含んだ強い視線で見据えて雪子さんが詰め寄ってくる。
「本当はコレ、そっちが落ち着いてから外そうと思ってたのよ。でも昼間青木くんに会って、叱られたわ。相手がどれだけ大事な人であろうと、自分の気持ちの方が優先だって。死んでしまった人のためにも、死にもの狂いで自分が幸せにならなきゃだめだ、って」
「図々しいなアイツ。誰のせいでこうなったと……」
「あら、彼があなたのこと好きで仕方ないせいでしょ? まさかあなたここまで好きにさせといて、悲劇のヒロインぶって身を引いたりしないわよね? 私を犬死にさせるのだけはホントに勘弁してね」
ヒロイン……って……誰が? まさか僕のことを指してるんじゃないだろうな?
理不尽な状況と嫌味ったらしい言い回しが癪に障った僕は、逆上を通り越して脱力感に襲われる。
「言ったわよね……私は青木くんといい加減な気持ちで付き合ってた訳じゃない。だからこそ、彼がすっ飛んでった先があなただから応援できると言ってるの。変な思いやりじゃなくて、これは本心よ」
開いた口がふさがらない僕を見て、雪子さんはにこりと笑った
「ある意味あなたが幸せにならないと、私、気になって自分が幸せになれないみたいなの。だからよろしくね」
ひらひらと手を振りながら出口の方へと身を翻す彼女の姿を力なく視線で追う。
何がどう「よろしく」なのか腑に落ちないまま、僕はトイレから遠ざかっていくヒールの音を、覚束ない足取りで追いかけた。
「ありがと……見張り番ご苦労様」
青木より少し目線が近い大男。
SPと雪子さんが向き合って佇んでいる光景に視線を奪われ、僕は足を止めた。
さっき雪子さんから感じた“不思議な違和感”が確信に変わったのだ。
久しぶりに見る、雪子さんのあの表情や目の色。
当たらずとも遠からず、僕の記憶の中の“鈴木が生きていた時の彼女”と不思議と結びつく。
「黒田さん」
颯爽と立ち去る雪子さんの背中をいつまでも目で追っているSPに近づいて僕は穏やかに話しかけた。
「僕の身柄は部下に預けるので、今夜は彼女を無事に家まで送り届けてください」
「え、でもあの方は……」
「三好雪子さんは、第九捜査員と旧来より深い関係にある保護対象です。彼女が必要とするかはさておき……一度伺いを立ててみてください。断られたら今日の任務は終了して結構なので」
いつになく丁寧な僕の口調が気味悪かったのか、黒田SPはキツネにつままれたような顔で一礼して離れ、雪子さんの後を足早に追っていく。
「はあ?お断りよ」
雪子さんの通る声が、僅かだがこっちまで聞こえてくる。SPのヤツ、玉砕かと思いきや意外とそうでもないらしい。
「あ、待って。任務外なら話は別よ。金曜だし仕事明けに一杯飲んでくのはどう?……って何見てんのよ、これダミーだからね。私とっくに婚約解消してるの、フリーよ、フリー……ホントだってば、ねぇ、ちょっとあなた、もしかして落ち込んでる……?」
コミカルなやりとりの余韻に頬を緩めたまま捜査室に戻ると、居残り組も引き払った後だった。
自分の周りの明かりだけついているデスクで、青木が残務を片付けていた。
「……お待ちしてました」
表情を硬くして足を止めた僕に、振り返らず声が掛かる。
大きな背中とその優しい声が、胸の奥に急速に吸い込まれ、僕の中の熱がまた疼き出した。
定時の終業時間を過ぎた男性用トイレの出入口から、ヒールの鋭利な足音が近づいてくる。
僕の目に触れないよう最大限の距離感で対応できるようになったSPに、数日ぶりに苛つきを覚える。
入る前の安全確認のうえ、僕が出てくるのを近くで待機しているはずのSPが、この期に及んで何故不審者を通すのか、と――
「つよし君」
「あなたここが何処だかわかってるんですか?」
洗面台の鏡越しの雪子さんに冷めた視線をやりながら、僕は訊ねる。
「ええ。今はつよし君と話せるプライベート空間。SP見張り付きのね」
「そんな都合のいい場所はありませんよ、ここはトイレです。それも男性用の」
あの木偶の坊SPめ……打たれ強くて控えめで任務に忠実な奴かと思いきや、女性に甘い欠点があったとは、見損なったぞ。
内心舌打ちする僕に、雪子さんは機嫌よく話を続ける。
「あなたのSP良い人ね。物陰から襲われそうになったから、つい癖で腕を捻りあげちゃったんだけど……謝ったら許してくれたし、中に誰もいないし二人で話してる間、見張っててくれるだなんて」
いや、襲ってはないだろうし過剰防衛を“癖”の一言で片付けられては困る。
そしてSPが対象以外の見張りの依頼を、部外者から勝手に受けただと?
それが本当なら聞き捨てならない。
「仰ることが事実なら、そいつは即刻クビですね」
僕の返しに雪子さんは青ざめた。
「えっ、ごめん! ホントは私が黒田さんに見張りを頼み込んだの。私はつよし君の親友だし決して悪いようにはしないからって……だってあなたあれからずっと私を避けてるじゃない。遠くで見守ってるくせに」
「そんなことしてないし、何勝手なことを……」
呆れながらも、僕は不思議な違和感をおぼえていた。
彼女は他人に貸しを作ることはあっても、見知らぬ相手から簡単に借りを作る人間ではない。
しかも個人名まで出てきている。
名前を聞き出したり覚えるのだって得意じゃないはずなのに……
「そういや青木くん変わったよね。あんなセクシーでワイルドな男じゃなかったのに、ここ数日で急にどうしたのかしら?」
今度は僕がギクリと身を竦める番だ。
青褪めて泳がせた視線が、彼女の左手薬指に嵌められた指輪でつい止まる。
「あ、これは心配しないで。もう次から外すから。私もスガちゃんに話して当たり障りなく拡散してもらったことだし。あ〜スッキリした」
血の気が引いたままの僕を、親愛の情を含んだ強い視線で見据えて雪子さんが詰め寄ってくる。
「本当はコレ、そっちが落ち着いてから外そうと思ってたのよ。でも昼間青木くんに会って、叱られたわ。相手がどれだけ大事な人であろうと、自分の気持ちの方が優先だって。死んでしまった人のためにも、死にもの狂いで自分が幸せにならなきゃだめだ、って」
「図々しいなアイツ。誰のせいでこうなったと……」
「あら、彼があなたのこと好きで仕方ないせいでしょ? まさかあなたここまで好きにさせといて、悲劇のヒロインぶって身を引いたりしないわよね? 私を犬死にさせるのだけはホントに勘弁してね」
ヒロイン……って……誰が? まさか僕のことを指してるんじゃないだろうな?
理不尽な状況と嫌味ったらしい言い回しが癪に障った僕は、逆上を通り越して脱力感に襲われる。
「言ったわよね……私は青木くんといい加減な気持ちで付き合ってた訳じゃない。だからこそ、彼がすっ飛んでった先があなただから応援できると言ってるの。変な思いやりじゃなくて、これは本心よ」
開いた口がふさがらない僕を見て、雪子さんはにこりと笑った
「ある意味あなたが幸せにならないと、私、気になって自分が幸せになれないみたいなの。だからよろしくね」
ひらひらと手を振りながら出口の方へと身を翻す彼女の姿を力なく視線で追う。
何がどう「よろしく」なのか腑に落ちないまま、僕はトイレから遠ざかっていくヒールの音を、覚束ない足取りで追いかけた。
「ありがと……見張り番ご苦労様」
青木より少し目線が近い大男。
SPと雪子さんが向き合って佇んでいる光景に視線を奪われ、僕は足を止めた。
さっき雪子さんから感じた“不思議な違和感”が確信に変わったのだ。
久しぶりに見る、雪子さんのあの表情や目の色。
当たらずとも遠からず、僕の記憶の中の“鈴木が生きていた時の彼女”と不思議と結びつく。
「黒田さん」
颯爽と立ち去る雪子さんの背中をいつまでも目で追っているSPに近づいて僕は穏やかに話しかけた。
「僕の身柄は部下に預けるので、今夜は彼女を無事に家まで送り届けてください」
「え、でもあの方は……」
「三好雪子さんは、第九捜査員と旧来より深い関係にある保護対象です。彼女が必要とするかはさておき……一度伺いを立ててみてください。断られたら今日の任務は終了して結構なので」
いつになく丁寧な僕の口調が気味悪かったのか、黒田SPはキツネにつままれたような顔で一礼して離れ、雪子さんの後を足早に追っていく。
「はあ?お断りよ」
雪子さんの通る声が、僅かだがこっちまで聞こえてくる。SPのヤツ、玉砕かと思いきや意外とそうでもないらしい。
「あ、待って。任務外なら話は別よ。金曜だし仕事明けに一杯飲んでくのはどう?……って何見てんのよ、これダミーだからね。私とっくに婚約解消してるの、フリーよ、フリー……ホントだってば、ねぇ、ちょっとあなた、もしかして落ち込んでる……?」
コミカルなやりとりの余韻に頬を緩めたまま捜査室に戻ると、居残り組も引き払った後だった。
自分の周りの明かりだけついているデスクで、青木が残務を片付けていた。
「……お待ちしてました」
表情を硬くして足を止めた僕に、振り返らず声が掛かる。
大きな背中とその優しい声が、胸の奥に急速に吸い込まれ、僕の中の熱がまた疼き出した。