☆一線〜悪魔の贈り物

 ある朝、気がかりな夢から覚めると、俺は吸血鬼になっていた……なんていう20世紀の有名な某不条理文学みたいな状況に、自分が置かれるなんて思ってもみなかった。

 何故吸血鬼かという理由は明らかだ。
 太陽が眩しい。というより光が肌に刺さる痛みすら感じる。
 それに耳が格段に利くようになり、視力も増したように思う。

 それに、匂うんだ。
 血の………匂いが、とても魅惑的に。

 それだけじゃない。
 旨そうかそうじゃないかもわかる。
 通勤途中の雑踏は、まるで無秩序に陳列された多種多様な料理の寄せ集めだ。
 甘そう、辛そう、酸味やアクが強そうだったり、たまに誘うような芳しさを感じる血も無くはなかったが、食欲に繋がる前に“人としての理性”が打ち克つ。
 通行人にいきなり噛みつくなんて、とんでもない。警察官としてあるまじき行為なのだ。


 
「おはようございます」

 第九の捜査室に足を踏み入れると、皆が振り返る。
 挨拶の返事は誰からも返らず、釘付けの視線だけが集中していた。

「…………」
 
 自分のデスクにドサリと腰を下ろした青木は、サングラスを外して物憂げに肩で息をついた。
 そして殺伐とした様子でPCを立ち上げ、山程あるMRIデータとにらめっこを始める姿に……一番最初に口を開いたのは曽我だった。

「何だよ、お前コンタクトか? 婚約解消したばかりなのに色気づいて、新しい彼女でもできたのかよ」

「いませんよ、そんな人」

「じゃあ何で……」

「メガネの度が合わなくなっちゃったんです」

「……はあ?」

 誰かにこの悩みを話したくても、きっと信じてもらえないだろう。
 しかも“婚約解消したばかり”ってもう一年以上経っているのに、それこそどちらかの新しい恋でも発覚しない限り、レッテルは貼られたままなのかもしれない。

 平静を装って職務を続けているうちに、ひどく喉が渇いてくる。
 空腹とは違う“渇き”だ。
 とにかく身体中が干からびそうに喉が渇く。

 仲間内で昼ご飯の話が出ているが、興味を引かないどころか気分が悪くなる。

「今日俺弁当買ってくるわ。青木は麻婆茄子いつものでいいか?」

「ウッ……すみません。今日俺、飯抜きでいいです」

 意外な返事を聞いて、気を利かせたつもりの曽我が固まっている。
 他の皆んなも、末っ子の異常をちらちらと心配げに見守っていた。

 “今日の青木、なんかイケメンぶってね?” と、笑顔の消えた深刻な顔で仕事に勤しむ青木をやっかむ者までいる。

 ただ、動体視力も上がってるので、仕事だけはえらく捗った。
 驚異的な処理能力で仕事を片付けた青木は、報告書を提出して、定時で職場を後にする。

 この渇きをどうにかしなくては、身が持たない。


 人(=生き血=食糧)を極力見ないよう、サングラスをかけて、スーパーの食品売り場を彷徨う。
 牛肉と赤ワインを購入して帰宅し、一人きりの台所で生肉をガツガツとワインで流し込む。
 肉に残る血が多少の渇きを癒し、芳醇なワインの匂いが飢餓感を薄れさせてくれた。

 だが満足のいく食事とは程遠かった。
 人間のときには味わったことのない底知れぬ渇望感を、一時的に凌ぐだけだ。


『明日からお前の主食は“血”だ』


 絶望のさなかで食事を啜る青木の脳裏に、昨夜の夢がふと浮かび上がる。

 真っ暗な空間に佇んでいる夢だ。

 その真向かいに対峙する人物を見てまず驚き、発する言葉に更に驚いた。
 薪にそっくりだが、別人だとすぐに分かるその人物・・・・に“お前は目覚めたら吸血鬼になる”と、いきなり宣言されたのだから。

『但し……人間の生き血を吸うときは気を付けることだ。お前が牙を立てるとき分泌する麻酔効果は人間にとって“媚薬”。そして興奮した人間の血がお前には“媚薬”だ。必ずセックスしたくなる。キメセクの虜になり淫魔に堕ちたヤツもいるらしいからね』

 あの薪さんがこんなワルいお顔で“キメセク”とか仰るはずないし、声だって少し太い。
 何より向き合ったこの人の身長は170後半はありそうだし、骨格も違う。
 青木は目の前の人物を観察しながら、頭を必死で整理しようとする。

 薪さんと同じで年齢不詳、三十代かもしれないが学生にもみえるこの人は誰なんだろう。兄弟や親戚にしたって似過ぎてる。

『あ、それと血を吸われた奴が吸血鬼になることはない。それは生まれつきの吸血鬼の一部がもつ力で、突然変異のお前にはそういう感染力は無いらしい』

『ちょ、ちょっと待ってくださいよ!そんなこと急に言われても困ります。それにあなたは誰ですか?初めてお目にかかりますよね?』

 相手は“ふ〜ん、見分けがつくんだな?”というような顔をして『サワムラだ』と短く名乗る。

『さわむらさん、ですか。俺は青木です。何故あなたは俺をご存知なんです?』

『…………』

 サワムラは煩わしそうに顔をしかめる。

『話せば永い。一言でいえば……剛を誰よりも想い愛する者だからだ』

 “誰よりも”という言葉に引っ掛かった青木は、変な顔をする。
 そんな青二才をサワムラは鼻で笑い、憮然としている大男を見上げて問いかける。

『剛はお前に何を・・“待っている”と言ったんだと思う?』

 青木は一瞬キョトンとして、それから大事な記憶をそっと引っ張り出した。
 もしかして、あの日飛行場で薪さんがくれた言葉のことなのか。
 なぜこの人が、それを知ってるんだろう?
 薪さんの名前を呼び捨てしたりして、まさか本当に親しい間柄なのだろうか?
 薪さんが俺たちのことを、事細かに話すほどに?

『それは、俺が早く一人前になって薪さんをちゃんと守れるように……なることを、待たれているのかと……』

『ハッ……』

 青木が答え終わらないうちに、サワムラは腹を抱えて笑い出した。

 不条理で不思議な夢の記憶はまだ続く。
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