きもちいいこと

 きもちいい。
 ただそれだけで快楽の果てまで流されていく。
 元に戻れないことを、僕はなぜ怖れていたのだろう。
 何かが変わったり、喪うわけ訳でも無い。愛しい温もりに包まれ心地好い疲労とともに一日を終える、ただそれだけのことなのに。

 夜明けの直後、仕込んでいたアラームの静かな振動に目を開く。
 薄明かりのなか、腕の中でくるまる僕を抱く青木も、脚をこっちに曲げ身体を丸めている。
 深い寝息も強い鼓動を受け止めながら、何だか大型犬と寄り添って寝ているみたいな妙に懐かしい気分に囚われている。

 こいつの身長じゃ、普段から脚を伸ばして寝られていないんだろうな。
 せめて僕の家のベッドは、こいつが伸び伸びと寝られる大きさのものに買い替えてやろうか……と思い浮かんだ考えを、慌てて振り払う。
 いや待て、なぜ家に泊めること前提なんだ。

 出会った頃のようにあどけなく見える寝顔を、腕の中からじっと見上げる。一回りも年下なのだから幼く見えて当然なのだが、愛くるしく思えて。無意識に伸び上がって触れた唇に自分で驚く間もなく、青木が深いキスで応えてきて、あっという間に覆い被さられる。

「……止せっ、もうさすがにムリだ」

「そうですか?でもこんなに……」

「違っ……母上が起きるじかんだ」

「ハッ……やばっ!」

 僕のパジャマの中をまさぐる大きな温かい手が離れていくのが名残惜しい。が、そんな感傷に浸っている暇はない。

 今朝は“フレンチトーストの日”だから、舞も早々に起きてくるだろう。
 アラームをセットしておいて正解だった。


 超速で寝具類などの証拠・・を洗濯機に隠滅・・した青木が、僕以外誰もいないキッチンに戻ってきて、ほっと胸を撫で下ろしている。

「舞ももう起きてるぞ。今はおばあちゃんとお散歩中だ」

 シャツにスラックス、そして僕用に誂えられたエプロンを身に着け、僕は隣に立つ青木に伝える。

 ここにはすっかり長居してしまった感がある。
 丸二日も在宅勤務で居座った上、自然に立つ台所もすでに、どこに何があるのかを大体把握してしまっていた。

「いい匂いですね、野菜スープですか」

「うん、お母さんの口に合うよう味付けは和風にしたんだが……どうだ?」

 僕は鍋のスープを小皿に掬って青木に差し出す。

「美味しそうです」

「……っ!?」

 近づいてきた青木の陰に覆われ、味見・・されたのは僕の唇。

「お前っ、いい加減に……こっちだろっ」

「うう……こっちも旨いですっ、ベーコンの塩味がきいて凄く……ぅう……」

 大袈裟なやつだ。だいたいその塩味はお前の涙も混じってるんじゃないか。


 朝食後早々にいとまするつもりが、結局舞が眠るまで帰れずに、最終便をめがけて向かう飛行場。

「舞と違って、お前は駄々を捏ねないんだな」

 明日はまだ日曜。居ようと思えばもう一日居られたが、随分と調子を狂わされた週末。自分を立て直す時間も必要だ。
 それを申し訳なく思う義理などないのだが、口に出さずとも青木から放出される名残惜しげな空気が、僕を感傷に浸らせる。

「ええ、あなたのペースで大丈夫ですよ」

 空港のパーキングの前で減速し、徐行する車内。
 青木の深刻で切実な横顔を見つめる僕の胸は、言い様のない熱い想いに高鳴っていた。

「それより、またここへ来てください。俺の願いはそれだけです」

 降車場に縦列で車が停まるあいだ、僕は黙っている。

「……ここへ、か」

「はい、すみません。ぜひ……お願いします!」

 ようやく言葉を発した僕に、青木は車内の天井に届きそうな頭を、僕に向かって深々と下げた。

「うん、また舞には会いに来る」

 舞だけ?と拍子抜けしたような顔にクスリと微笑んで、僕はドアを開ける。

「……次はお前がこっちに来い」

 外界の音が入り込んでくると同時に、僕は小さな声で言い残した。

「……え?」

 聞こえなかったのなら、二度と言わないぞ。

「薪さん、今なんて?」

 僕は何も答えず、未練を裁ち切るように青木を残した車のドアを閉じ、歩きだしていた。

 
 あいつの意思なんていらないんだ。家族であり上司。僕には呼び出す権限が二つもある。

 もう待たないし、ベッドも買い替える。

 節度は守りつつだが、きもちいいことしたくなったら、いつでも呼びつけてやろう。
 
 そう思っただけで、尻尾を振って飛んでくる大型犬の姿が浮かんで、僕は微笑を堪えるように噛みしめた。
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