きもちいいこと
クリスチャンでもない俺の脳内に、ハレルヤの大合唱が響き渡る目覚めの時。
未知の快楽を貪り尽くした身体は、生まれ変わったような幸福感に満たされていて……俺は結ばれてしまったのだ。久しく憧れを募らせてきた美しいその人と。
それでもやってくるのはいつも通りの朝。
始まったのは、薪さんがいてくださることを除けば、普段通りの日常だった。
朝食後の洗い物をする俺は、手だけを動かしながら傍らの調理台に並んで立つ天使たちに、すっかり心奪われていた。
これってフレンチトースト?結局パンベルデュ?卵を割って、ミルクと混ぜて……と、笑い声のような二人の会話が俺の鼓膜を心地良く擽る。
「薪さんとこうなりたい」と思い描いていた光景の中に、今俺はいる。
いや、描いていた以上じゃないか。
まさか結ばれようだなんて、望むすべさえ知らなかった。
言い表せないほどの幸せに打ち震えながら、フレンチトーストの仕込みを終えた舞を学校に送り出す。
いつまで経っても醒めない夢を、まだみているような気分だ。
「おい」
浮き足立ったまま、なんとか身なりを整えた俺に、デスクでノートPCを覗きながら薪さんが声を掛ける。
「今日はお前も現場 へ直行か?」
「いえ、白石が手を挙げたので彼女一人です」
「なるほど、頼もしい若手が育って室長様もご安心、だな」
その返答の行間から“自主性の尊重は結構だが、早期解決への裁量を怠るな”というニュアンスを読みとった俺は、ハッとして姿勢を正した。
「やはり俺も行ってきます」
「ん……」
襟を正し地に足をつけて、部屋を立ち去る俺。
“行ってきます”のキスも忘れず交わしたけれど、俺にとってこの人はやはり、一線を越えても憧れの上司であることに変わりないのを自覚する。
「あれ?室長?」
現場に現れた俺を見た白石が、ぽかんとして困惑したように顔を赤らめる。
「おはよう」
「……おはようございます」
腑に落ちない彼女の表情も理解できる。同じ頃の俺だって、一人で行くと宣言した現場に薪さんや岡部さんが現れたら、心強い反面不満も覚えるだろう。が、口をついて出たのは違う言葉だった。
「君が頼りないから来たわけじゃない。事件の重さと緊急度の問題だから、俺に気にせず好きに動いて」
「……はい」
白石とは別行動で、昨日チェックしたMRIと同じ時間帯の同じ景色を辿る。ここら辺りは一歩入れば繁華街の大通りかつ小学校の通学路で駅も近いとあって、仕事明けや通勤、通学と様々な人が交差する。被害者と被疑者はここで接点を持ち、初対面にも関わらず、通勤ルートを外れた場所で事件は起きた。
背後から襲われているので、犯行を決定づける画はなく動機も不明。読唇で拾う会話も他愛ない内容しかないから、それ以外の手掛かりが欲しい。
「あの、室長……何かあったんですか?」
MRIで見覚えのある数人の通行人を呼び止めて聞き込みを続けていた俺の、手が空いた隙をみて白石が訊く。
「えっ……いや……何で?」
昨夜あった重大なナニカを極力想い出さぬよう、長年の捜査で鍛えたポーカーフェイスを駆使して、俺は応える。
「いえ、あの……室長ってお若いし、偉い方だけど親しみやすいね、っていつも皆で話してるんですけど。今日はなんか厳しいじゃないですか」
「……へ?」
厳しい、なんて言われる心当たりが無さすぎて、俺は首をひねった。
「今朝室長がいらした時、私怒ってるの、わかりましたよね?」
「う〜ん、それはまあ」
「いつもならそういうのマメに拾ってくださるのに、今日はバッサリ切り捨てられたので」
ハア?第八管区って平和すぎないか? そんな些細なことに厳しさを感じるなんて、山城や波多野ならそれでも“優しい”と言うと思う。
「なんか、守るものとかできました?」
「いや、守るものなら元から……あるし」
てか“守るものができると人に厳しくなる”って、そもそも滅茶苦茶な理論だろ。
でも当たらずとも遠からずかもしれない。共感より先に指示が出て体が動いた。捜査でも、何をするにも、今までとは違う景色がみえる。
薪さんを肌で知ったことで、一皮も二皮も剥けた気がする。
たぶんこれは、手が届かないと見上げていた世界に、背伸びして踏み込んだからこそみえる景色なのだろう――
後戻りはしない。しないしできない。
そう言ってあの人を繋ぎ止めたはずなのに。
その晩俺は、少し遠慮がちになっていた。
「あっちの部屋の布団。あれは誰用なんだ?」
襖の開く音と薪さんの声。
寝転んだベッドで字面しか追っていなかった本を閉じ、俺は体を起こす。
「……あなたのです。今夜もし俺に触れられたくなければ、と思って……」
駄目だ、そう言いながらも我慢できない。
俺はうわべだけの思いやりを口にしながら立ち上がり、上目遣いで睨んでいる可愛い人を、思いきり抱きしめてしまう。
風呂上がりの火照る身体は、二人とも同じソープの香りがした。
「あなたがここに来たら、俺は手を出しますよ」
「……そんなこと、わかってる……」
腕の中の薪さんは俺の胸に潜り込むように頬を擦り寄せてくる。
「二度としたくないんじゃ、なかったんですか?」
湧きあがる愛しさを噛み殺しながら、俺は上擦る声と耳元へのキスで、薪さんを確かめる。
「……そうだ。ぼくはしたくなんかない」
「……え」
嘘、ですよね?
「でもおまえがしたいなら、しかたないだろ」
……なるほど、俺のせいですか。
いいですよ、どんどん責任転嫁してください。
あなたが責任を取り切れないのなら、俺が喜んで、いくらでも取りますから。
未知の快楽を貪り尽くした身体は、生まれ変わったような幸福感に満たされていて……俺は結ばれてしまったのだ。久しく憧れを募らせてきた美しいその人と。
それでもやってくるのはいつも通りの朝。
始まったのは、薪さんがいてくださることを除けば、普段通りの日常だった。
朝食後の洗い物をする俺は、手だけを動かしながら傍らの調理台に並んで立つ天使たちに、すっかり心奪われていた。
これってフレンチトースト?結局パンベルデュ?卵を割って、ミルクと混ぜて……と、笑い声のような二人の会話が俺の鼓膜を心地良く擽る。
「薪さんとこうなりたい」と思い描いていた光景の中に、今俺はいる。
いや、描いていた以上じゃないか。
まさか結ばれようだなんて、望むすべさえ知らなかった。
言い表せないほどの幸せに打ち震えながら、フレンチトーストの仕込みを終えた舞を学校に送り出す。
いつまで経っても醒めない夢を、まだみているような気分だ。
「おい」
浮き足立ったまま、なんとか身なりを整えた俺に、デスクでノートPCを覗きながら薪さんが声を掛ける。
「今日はお前も
「いえ、白石が手を挙げたので彼女一人です」
「なるほど、頼もしい若手が育って室長様もご安心、だな」
その返答の行間から“自主性の尊重は結構だが、早期解決への裁量を怠るな”というニュアンスを読みとった俺は、ハッとして姿勢を正した。
「やはり俺も行ってきます」
「ん……」
襟を正し地に足をつけて、部屋を立ち去る俺。
“行ってきます”のキスも忘れず交わしたけれど、俺にとってこの人はやはり、一線を越えても憧れの上司であることに変わりないのを自覚する。
「あれ?室長?」
現場に現れた俺を見た白石が、ぽかんとして困惑したように顔を赤らめる。
「おはよう」
「……おはようございます」
腑に落ちない彼女の表情も理解できる。同じ頃の俺だって、一人で行くと宣言した現場に薪さんや岡部さんが現れたら、心強い反面不満も覚えるだろう。が、口をついて出たのは違う言葉だった。
「君が頼りないから来たわけじゃない。事件の重さと緊急度の問題だから、俺に気にせず好きに動いて」
「……はい」
白石とは別行動で、昨日チェックしたMRIと同じ時間帯の同じ景色を辿る。ここら辺りは一歩入れば繁華街の大通りかつ小学校の通学路で駅も近いとあって、仕事明けや通勤、通学と様々な人が交差する。被害者と被疑者はここで接点を持ち、初対面にも関わらず、通勤ルートを外れた場所で事件は起きた。
背後から襲われているので、犯行を決定づける画はなく動機も不明。読唇で拾う会話も他愛ない内容しかないから、それ以外の手掛かりが欲しい。
「あの、室長……何かあったんですか?」
MRIで見覚えのある数人の通行人を呼び止めて聞き込みを続けていた俺の、手が空いた隙をみて白石が訊く。
「えっ……いや……何で?」
昨夜あった重大なナニカを極力想い出さぬよう、長年の捜査で鍛えたポーカーフェイスを駆使して、俺は応える。
「いえ、あの……室長ってお若いし、偉い方だけど親しみやすいね、っていつも皆で話してるんですけど。今日はなんか厳しいじゃないですか」
「……へ?」
厳しい、なんて言われる心当たりが無さすぎて、俺は首をひねった。
「今朝室長がいらした時、私怒ってるの、わかりましたよね?」
「う〜ん、それはまあ」
「いつもならそういうのマメに拾ってくださるのに、今日はバッサリ切り捨てられたので」
ハア?第八管区って平和すぎないか? そんな些細なことに厳しさを感じるなんて、山城や波多野ならそれでも“優しい”と言うと思う。
「なんか、守るものとかできました?」
「いや、守るものなら元から……あるし」
てか“守るものができると人に厳しくなる”って、そもそも滅茶苦茶な理論だろ。
でも当たらずとも遠からずかもしれない。共感より先に指示が出て体が動いた。捜査でも、何をするにも、今までとは違う景色がみえる。
薪さんを肌で知ったことで、一皮も二皮も剥けた気がする。
たぶんこれは、手が届かないと見上げていた世界に、背伸びして踏み込んだからこそみえる景色なのだろう――
後戻りはしない。しないしできない。
そう言ってあの人を繋ぎ止めたはずなのに。
その晩俺は、少し遠慮がちになっていた。
「あっちの部屋の布団。あれは誰用なんだ?」
襖の開く音と薪さんの声。
寝転んだベッドで字面しか追っていなかった本を閉じ、俺は体を起こす。
「……あなたのです。今夜もし俺に触れられたくなければ、と思って……」
駄目だ、そう言いながらも我慢できない。
俺はうわべだけの思いやりを口にしながら立ち上がり、上目遣いで睨んでいる可愛い人を、思いきり抱きしめてしまう。
風呂上がりの火照る身体は、二人とも同じソープの香りがした。
「あなたがここに来たら、俺は手を出しますよ」
「……そんなこと、わかってる……」
腕の中の薪さんは俺の胸に潜り込むように頬を擦り寄せてくる。
「二度としたくないんじゃ、なかったんですか?」
湧きあがる愛しさを噛み殺しながら、俺は上擦る声と耳元へのキスで、薪さんを確かめる。
「……そうだ。ぼくはしたくなんかない」
「……え」
嘘、ですよね?
「でもおまえがしたいなら、しかたないだろ」
……なるほど、俺のせいですか。
いいですよ、どんどん責任転嫁してください。
あなたが責任を取り切れないのなら、俺が喜んで、いくらでも取りますから。