3

 ぬくもりと輝きに満ちた穏やかな幸せに包まれる感覚は、初めてじゃない。
 色んな意味で遠い、記憶の向こうに眠らせていただけだ。
 それは幼少期当たり前に浸っていた世界の片鱗でもあって――

「……薪さん」

 リビングで風呂上がりの火照りを冷ましていた薪を見つけて、青木がキッチンから出てきた。
 そして腰掛けたソファの隣が、青木の体重でゆっくり沈んでいく。

「っ、寄るな。暑苦しい」

 寄り添うように傾く自分の身体を捩り、薪は大男の身体を押し返した。

「……ああ、すみません」

 くっついた身体が少し離れて、代わりに扇風機のゆるやかな風が向けられる。
 すると薪は数分もしないうちに、自分が押し退けた相手に向かって「さむい」と不機嫌に手のひらを返すのだ。

「ごめんなさい」

 大男のぬくもりが薪を覆った。
 視界が陰り、湿った熱いキスで唇も塞がれる。
 と、向こうで幼子の声がした。

「……んぁ……まンま……」

 呼ばれた薪が青木の腕をすり抜けて、手の甲で口元を拭いながら子ども部屋を覗きに行く。
 浅い眠りの中でもぞもぞ動く希に、脱げかけていたタオルケットが掛け直される。
 そのママの手におでこをやさしく撫でられて、安心した幼子の寝息が、また深くなっていく。


「大丈夫でしたか?」

 そっと戻ってきて頷く薪の腕を掴んで引き寄せ、青木が座らせたのは、ソファじゃなく自分の膝の上だ。

 椅子代わりの大男の背後から回された両手が、薪の下腹部にそっと当てられ、そのまま優しく撫で回しはじめる。
 身を任せて目を閉じる薪の口元を綻んでいる。
 その表情は見えないけれど、うっとりしている薪の後頭部に鼻を埋めた青木は、いい香りを吸い込んで、深く息を吐く。

「実は俺……二年前……あなたに初めてヤキモチを妬きました」

「え……?」

「希が誕生する前日……雪子さんの結婚式の日。あの時あなたは頻繁にスマホを気にされていて……」

「……ああ、それは……」

「知ってます。ポッドの希とセンサーで繋がっていたんですよね。当時の俺はそのことを知らなくて……」

 思わず漏れる甘い息を悟られないように、薪は俯いて顔をそらす。
 こいつの手は、魔法の手だ。
 どんなときも、触れられると肌が震えて身体が芯から熱くなる。
 とても厄介なのに愛しくて……抗い難い合法的な麻薬のようなものだ。

「俺、思い上がってたんです……だから薪さんがそういう・・・・視線を向ける相手が他にいることに焦って……」

「そういう、って、どういう……」

「わかりません。親密というか、熱がこもってて……とにかく焦りました。身勝手ながら、あなたを他の誰かに盗られるのが凄く嫌で……」

 いつの間にか止まった手が、シートベルトみたいに組まれて薪の身体をがっちり固定している。

「今はどうなんだ? 希に妬いたりするのか?」

「まさか。家族となれば話は別ですよ。希や舞に向けるあなたの眼差しは、俺の宝物でしかありません」

 ほどかれた青木の両手が、薪の腹部をまた擦りだす。

「おい……よせ……って」

「どうして……お嫌ですか?」

「くすぐ……ったい」

「はあ、動かしてないのに?」

 動かさなくても、こっちのカラダが勝手に疼くのだ。
 カラダだけじゃない、気持ちもすべて擲つ賭けに出たあの夜の、切実な本能がまだ自分のなかに生きているから――

「俺、たまに思い返すんです。大事な希をあなたが宿してくださったときのことを。何も知らなかったけど、今思うとめちゃくちゃ幸せで……愛の結晶・・・・ってよく言ったもんだな、って……」

 “愛の結晶”の言葉に、薪の心が大きく揺さぶられる。

 そうか、希は……
 だから、僕は救われて……

「それが希と僕の、明確な違いなんだな」

「え?」

「いや……」

 まだ青木には教えていない“この命”が母の身体に宿ったいきさつのこと。
 でももう、話す必要もないのかもしれない。
 自分という命の発端の忌まわしさが消える訳じゃ無いけれど、青木と結ばれた自らの体内に宿って生まれた命の存在に、いくらか上塗りされていく感覚はあった。

 そもそも始めから、どれほどの呪いに苛まれていたというのだろう。
 母のことを、彼女が宿した命ごと、すぐさま深い愛情の中に呑み込んだ父。多分発覚した瞬間から無条件の愛の中で我が子を守る防波堤となってくれた両親に、自分は存分に守られていたんだと、親になって初めて気づく。


「ベッド……行きませんか」

「いいけど、サカるな……って」

 疼く身体を捩る薪を宥めるように向き合わせ、パジャマを剥いでいく大きな手。露わになる胸元をなぞる舌が、じっくりと敏感な反応を味わっている。

「……でも……あなたもこんなになって、ほら……もう間に合わないから、ここで……って、エッ?」

 やけに素直に身体を預ける薪を不思議に思った青木が、綺麗な瞳からぼろぼろ零れている涙に気づく。
 その驚いた顔を見て、薪もようやく自分が泣いていることに気づいた。

「ご、ごめんなさい、俺何かマズいことでも?」

 涙が止まらないまま薪は首を横に振った。
 初めて家族で過ごす我が子の誕生日を、泣いて過ごすなんて勿体ない。
 そう思う暇さえ与えない青木に甘やかされた薪は、ベッドで寝かしつけられ、子どもの誕生日なのに、赤子のようにぐっすり眠ったのだった。
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