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――えっ?
朝餉の匂いにつられて、薪の瞼が開く。
「ア、オキっ……!」
しまった、寝すぎたか。
手早く着替えて襖を開け、居間に飛び出すと、セミオープンのキッチンで冷蔵庫の中を覗いていた青木と舞が、明るい顔で同時に振り返る。
「あ、マキちゃんだ、おはよう〜」
「おはようございます!」
賑やかで眩しい朝の始まり方に、まだ慣れてない。
薪は真ん丸に見開いていた目をゆっくり伏せて、肩で息を吐いてから「おはよう」と落ち着いた声で返した。
が、青木が取り出した皿を見て、また髪の毛を逆立てる。
「っ、それ……!」
「こんなに立派な厚焼き玉子、あなたが作ったんですか?」
「いや、ただの試作だ」
「え〜、マキちゃんすごい、お料理上手だね!」
「ホントですよ。薪さんって何でもできるんですね。さあ、皆で美味しくいただきましょう」
「そんな大層なものじゃ……おい待て……っ」
踏み出そうとした足が動かない。ちょうど起きてきた希にしがみつかれたからだ。
「あら、ノンちゃん、おはよう」
隣部屋の襖を開けたおばあちゃんの気配に、希が「バァバ」と顔を輝かせる。
キッチン越しに青木と舞も顔を覗かせて、全員が皆にこやかに向き合って「おはようございます」を言いあった。
この温かさが、やはり薪にはどこかくすぐったい。
味噌汁は完成し、厚焼玉子にもう一品……と、ウキウキしながら付け合わせを作り始める青木を横目に、おバアちゃんは腰をかがめて希に話しかける。
「ノンちゃん、ご飯できるまでおばあちゃんとお散歩しようか」
「はい!今上着を」
と、答えたのは希……ではなく、もちろん薪だ。
「母さん、希と散歩は一人ではちょっと……」
「大丈夫、お庭に出るだけよ」
「僕も、ご一緒します」
薪さんまた頑張り過ぎているな……と、慌てて飛び出す薪の背中を苦笑交じりに青木が見送る。
「希は上手に歩くのねぇ」
「そうですか?」
この一晩ですっかり打ち解けた母の口調。
砂利に足を取られながらも上手くバランスをとる希の歩みに目を細める母の横顔を、薪は和やかな気持ちで見つめた。
「そうよ。まだ一歳半でしょ? 一行なんて体大きくて年齢より上に見えるのに、一歳過ぎてハイハイするのが可笑しくてねぇ。アンヨだとお姉ちゃんに置いてかれるから、もう必死で……」
体格のいい幼子が、駆け回る幼女を這ってまで追いかけている光景を想像して、薪は思わずくすりと笑ってしまった。
「マキさんご兄弟は?」
「……一人っ子です」
普通に答えたつもりなのに、母の表情がなにげに曇る。
「ごめんね、嫌なこと聞いたかしらね」
「いえ、全く……」
見通されてる、いや空気で伝えてしまうのだ。
人に笑って話せる自分の過去なんて、生まれた時点で無いことを。
でも家族の会話とは、不思議なものだ。
大きなこと、重いこと、軽いこと、柔らかいこと……どんな話もごっちゃになって“日常”という、長い物語を紡ぐページの一部に追加されていく。
そして自分が何を抱えてようと、ただ母と希と歩いてるだけで、たしかな“存在”を約束されてる気にもなるのだから。
「私、一行の仕事、はじめは心配してたんよ。死んだお父さんと一緒に……」
「……」
「東京で、死体の脳なんて覗いて何しとっとやろ……なんて思って、親戚や近所にも隠したりしてね」
青木とは似て異なる母の真っ直ぐさの直撃。
薪は身構える間もなく、観念して耳を傾けることにした。
「でもね、舞鶴公園に立派な建物が出来て、一行が室長さんになったでしょ。世間に役立つ仕事って新聞にも載って、みんなに“すごか”って言われるようになって……」
「……すみません」
立ち止まり頭を下げる薪の肩に、添えられる母の手。言葉だって仕草だって、遠慮も飾りもない、この人そのものの温もりだ。
「いいのよ。なんで謝るの? あ、ノンちゃん」
薪から離れ、母が先を行く希を追っていく。
遊び慣れた庭を軽やかな足取りで探索する希の小さな背中を、絶えず見守る二人の視線。
手は出さず、手の届く距離を保つ安全地帯で、希をのびのび遊ばせている。
「それからは、見合い話とか来るし、職場から白石さんって子も舞の送迎とか言って出入りするしで、忙しなくて……」
「……」
だめだ、心が痛んでチリチリ焦げる。そんなダメージ受けてる場合じゃないのに。
「でも一行は『好きな人がおる』って見向きもせんで。それ、あんたんことやったんやね」
「……!」
痛んだ胸の熱が、今度は破裂しそうに膨らんだ。
「結局良かったのよ。マキさんや希んところへ来てよく分かった。どんなに一行が幸せかって……」
希と目が合った母が手招きすると、賢い幼子はすぐさま進行方向をこちらに向けて、歩み寄ってくる。
「やっぱりね、来てみらんとわからんもんなのよ。近くにおることが一番大事よね」
“そうですね。これからもお母さんが近くにいてくれたら、僕も嬉しいです”
表したい気持ちを、言葉にはできない。
青木がどこまで母に話しているかわからないのに、自分がここで言うのは……いけないような気がした。
「さ、そろそろ戻らんと」
二人の足元にたどり着いた希の手を母が取った。
「……うん。希、行こうか」
薪も微笑んで頷く。
「おバアちゃーん、マキちゃん、ノンちゃん、ごはんだよぉ」
ちょうど家から舞の呼ぶ声がした。
朝餉の匂いにつられて、薪の瞼が開く。
「ア、オキっ……!」
しまった、寝すぎたか。
手早く着替えて襖を開け、居間に飛び出すと、セミオープンのキッチンで冷蔵庫の中を覗いていた青木と舞が、明るい顔で同時に振り返る。
「あ、マキちゃんだ、おはよう〜」
「おはようございます!」
賑やかで眩しい朝の始まり方に、まだ慣れてない。
薪は真ん丸に見開いていた目をゆっくり伏せて、肩で息を吐いてから「おはよう」と落ち着いた声で返した。
が、青木が取り出した皿を見て、また髪の毛を逆立てる。
「っ、それ……!」
「こんなに立派な厚焼き玉子、あなたが作ったんですか?」
「いや、ただの試作だ」
「え〜、マキちゃんすごい、お料理上手だね!」
「ホントですよ。薪さんって何でもできるんですね。さあ、皆で美味しくいただきましょう」
「そんな大層なものじゃ……おい待て……っ」
踏み出そうとした足が動かない。ちょうど起きてきた希にしがみつかれたからだ。
「あら、ノンちゃん、おはよう」
隣部屋の襖を開けたおばあちゃんの気配に、希が「バァバ」と顔を輝かせる。
キッチン越しに青木と舞も顔を覗かせて、全員が皆にこやかに向き合って「おはようございます」を言いあった。
この温かさが、やはり薪にはどこかくすぐったい。
味噌汁は完成し、厚焼玉子にもう一品……と、ウキウキしながら付け合わせを作り始める青木を横目に、おバアちゃんは腰をかがめて希に話しかける。
「ノンちゃん、ご飯できるまでおばあちゃんとお散歩しようか」
「はい!今上着を」
と、答えたのは希……ではなく、もちろん薪だ。
「母さん、希と散歩は一人ではちょっと……」
「大丈夫、お庭に出るだけよ」
「僕も、ご一緒します」
薪さんまた頑張り過ぎているな……と、慌てて飛び出す薪の背中を苦笑交じりに青木が見送る。
「希は上手に歩くのねぇ」
「そうですか?」
この一晩ですっかり打ち解けた母の口調。
砂利に足を取られながらも上手くバランスをとる希の歩みに目を細める母の横顔を、薪は和やかな気持ちで見つめた。
「そうよ。まだ一歳半でしょ? 一行なんて体大きくて年齢より上に見えるのに、一歳過ぎてハイハイするのが可笑しくてねぇ。アンヨだとお姉ちゃんに置いてかれるから、もう必死で……」
体格のいい幼子が、駆け回る幼女を這ってまで追いかけている光景を想像して、薪は思わずくすりと笑ってしまった。
「マキさんご兄弟は?」
「……一人っ子です」
普通に答えたつもりなのに、母の表情がなにげに曇る。
「ごめんね、嫌なこと聞いたかしらね」
「いえ、全く……」
見通されてる、いや空気で伝えてしまうのだ。
人に笑って話せる自分の過去なんて、生まれた時点で無いことを。
でも家族の会話とは、不思議なものだ。
大きなこと、重いこと、軽いこと、柔らかいこと……どんな話もごっちゃになって“日常”という、長い物語を紡ぐページの一部に追加されていく。
そして自分が何を抱えてようと、ただ母と希と歩いてるだけで、たしかな“存在”を約束されてる気にもなるのだから。
「私、一行の仕事、はじめは心配してたんよ。死んだお父さんと一緒に……」
「……」
「東京で、死体の脳なんて覗いて何しとっとやろ……なんて思って、親戚や近所にも隠したりしてね」
青木とは似て異なる母の真っ直ぐさの直撃。
薪は身構える間もなく、観念して耳を傾けることにした。
「でもね、舞鶴公園に立派な建物が出来て、一行が室長さんになったでしょ。世間に役立つ仕事って新聞にも載って、みんなに“すごか”って言われるようになって……」
「……すみません」
立ち止まり頭を下げる薪の肩に、添えられる母の手。言葉だって仕草だって、遠慮も飾りもない、この人そのものの温もりだ。
「いいのよ。なんで謝るの? あ、ノンちゃん」
薪から離れ、母が先を行く希を追っていく。
遊び慣れた庭を軽やかな足取りで探索する希の小さな背中を、絶えず見守る二人の視線。
手は出さず、手の届く距離を保つ安全地帯で、希をのびのび遊ばせている。
「それからは、見合い話とか来るし、職場から白石さんって子も舞の送迎とか言って出入りするしで、忙しなくて……」
「……」
だめだ、心が痛んでチリチリ焦げる。そんなダメージ受けてる場合じゃないのに。
「でも一行は『好きな人がおる』って見向きもせんで。それ、あんたんことやったんやね」
「……!」
痛んだ胸の熱が、今度は破裂しそうに膨らんだ。
「結局良かったのよ。マキさんや希んところへ来てよく分かった。どんなに一行が幸せかって……」
希と目が合った母が手招きすると、賢い幼子はすぐさま進行方向をこちらに向けて、歩み寄ってくる。
「やっぱりね、来てみらんとわからんもんなのよ。近くにおることが一番大事よね」
“そうですね。これからもお母さんが近くにいてくれたら、僕も嬉しいです”
表したい気持ちを、言葉にはできない。
青木がどこまで母に話しているかわからないのに、自分がここで言うのは……いけないような気がした。
「さ、そろそろ戻らんと」
二人の足元にたどり着いた希の手を母が取った。
「……うん。希、行こうか」
薪も微笑んで頷く。
「おバアちゃーん、マキちゃん、ノンちゃん、ごはんだよぉ」
ちょうど家から舞の呼ぶ声がした。