桜の下で思わず求婚する話
深夜の室長室の静寂の中に、キーボードとマウスの操作音だけが微かに響いている。
水平に開かれたブラインドの隙間からは、先ほどの公園の夜桜が遠く淡い光を湛えて浮かんいる。外から室内が見えないよう明かりを落としたまま、青木はデスクのモニターの光だけで残務を続けていた。
薪が口走った「急ぎの捜査」はもちろん出任せだったが、戻れば仕事なんて何時 でも山程ある。
「……酔っている時に仕事などするもんじゃないぞ。判断を誤りかねない」
背後から、少し呆れたような薪の声がした。
「クスッ。どの口が仰ってるんですか。いつも無理をされているのは薪さんの方でしょう?」
「ふ……お前というやつは」
たわいもない軽口に、先ほどまでの張り詰めた緊張が、春の雪のように少しずつ解けていく。
「薪さん、折角なので、一つだけお見せしたい新技術があるんですが」
「ほう、新技術?」
興味を惹かれた薪が、隣からモニターを覗き込む。
「今まで目視できないものはノイズとして処理していましたが、このようにAIが抽象的な繰り返しのパターンを解析することで……」
「なるほど。意識の深層にある『意味』を可視化するというわけか。面白いな」
薪は自然と身を乗り出し、マウスを操り始めた。
仕事モードに入ると、動揺やぎこちなさなど、どこかへ置き忘れてしまう。そんな薪の横顔を愛おしく見つめながら、青木は壁際に歩いていって戸棚の奥から琥珀色のボトルをそっと取り出した。
「おい、青木。仕事中だぞ」
気配でそれを察した薪が、顔を上げずに釘を刺す。
「え、だって岡部さんとは、第三管区の室長室でたまに飲んでいるじゃないですか。俺にも特例を許してくださいよ」
「……」
言い返せず、薪は差し出された有田焼のぐい呑みを受け取った。
注がれた瞬間、芳醇で力強い香りがふわりとあたりに広がる。
「薪さん、これは俺の故郷……福岡のとっておきの長期熟成麦焼酎です。東京の洗練された酒とは違いますが、芯が強くて、温かい……飲んでみてください」
八年熟成の樽貯蔵原酒。
ストレートで一口含んだ薪は、喉を焼く熱情と、その奥にある深い慈愛のような甘みに、僅かに目を細めた。
「……強いな。だが、悪くない」
ウイスキーにも似た芳醇な味わいの液体を愉しげに飲み干し、薪が静かにグラスを置く。
ふと、その瞳から学究的な熱が消え、厳しい眼差しがモニターの光を反射して青木を真っ直ぐに射抜いた。
「それで……さっきの続きだが。なぜ、お前は結婚なんて形式に固執する? 僕たちは今のままでも、十分に深く繋がっているはずだろう」
問いかけられた青木は、すぐには答えなかった。
ただ、ぐい呑みを握る薪の白く細い指先を、じっと見つめている。その沈黙が、薪を焦らせた。
「わざわざ他人の承認を得る必要がどこにあるんだ。……お前は、そんなものに縋らなければ、僕を信じられないのか?」
薪の問いは、鋭いようでいて、その実、彼自身の臆病さの裏返しのようにも聞こえた。絆を形にすることを「束縛」や「脆さ」と捉えてしまう、薪ならではの危うさ。
青木はそれに怯むことなく、デスクの上に置かれた薪の手を、自らの大きな掌でそっと包み込む。
「っ……」
驚いたように震えた薪の指先に、青木は自らの体温を分け与えるように、ゆっくりと力を込めた。
水平に開かれたブラインドの隙間からは、先ほどの公園の夜桜が遠く淡い光を湛えて浮かんいる。外から室内が見えないよう明かりを落としたまま、青木はデスクのモニターの光だけで残務を続けていた。
薪が口走った「急ぎの捜査」はもちろん出任せだったが、戻れば仕事なんて
「……酔っている時に仕事などするもんじゃないぞ。判断を誤りかねない」
背後から、少し呆れたような薪の声がした。
「クスッ。どの口が仰ってるんですか。いつも無理をされているのは薪さんの方でしょう?」
「ふ……お前というやつは」
たわいもない軽口に、先ほどまでの張り詰めた緊張が、春の雪のように少しずつ解けていく。
「薪さん、折角なので、一つだけお見せしたい新技術があるんですが」
「ほう、新技術?」
興味を惹かれた薪が、隣からモニターを覗き込む。
「今まで目視できないものはノイズとして処理していましたが、このようにAIが抽象的な繰り返しのパターンを解析することで……」
「なるほど。意識の深層にある『意味』を可視化するというわけか。面白いな」
薪は自然と身を乗り出し、マウスを操り始めた。
仕事モードに入ると、動揺やぎこちなさなど、どこかへ置き忘れてしまう。そんな薪の横顔を愛おしく見つめながら、青木は壁際に歩いていって戸棚の奥から琥珀色のボトルをそっと取り出した。
「おい、青木。仕事中だぞ」
気配でそれを察した薪が、顔を上げずに釘を刺す。
「え、だって岡部さんとは、第三管区の室長室でたまに飲んでいるじゃないですか。俺にも特例を許してくださいよ」
「……」
言い返せず、薪は差し出された有田焼のぐい呑みを受け取った。
注がれた瞬間、芳醇で力強い香りがふわりとあたりに広がる。
「薪さん、これは俺の故郷……福岡のとっておきの長期熟成麦焼酎です。東京の洗練された酒とは違いますが、芯が強くて、温かい……飲んでみてください」
八年熟成の樽貯蔵原酒。
ストレートで一口含んだ薪は、喉を焼く熱情と、その奥にある深い慈愛のような甘みに、僅かに目を細めた。
「……強いな。だが、悪くない」
ウイスキーにも似た芳醇な味わいの液体を愉しげに飲み干し、薪が静かにグラスを置く。
ふと、その瞳から学究的な熱が消え、厳しい眼差しがモニターの光を反射して青木を真っ直ぐに射抜いた。
「それで……さっきの続きだが。なぜ、お前は結婚なんて形式に固執する? 僕たちは今のままでも、十分に深く繋がっているはずだろう」
問いかけられた青木は、すぐには答えなかった。
ただ、ぐい呑みを握る薪の白く細い指先を、じっと見つめている。その沈黙が、薪を焦らせた。
「わざわざ他人の承認を得る必要がどこにあるんだ。……お前は、そんなものに縋らなければ、僕を信じられないのか?」
薪の問いは、鋭いようでいて、その実、彼自身の臆病さの裏返しのようにも聞こえた。絆を形にすることを「束縛」や「脆さ」と捉えてしまう、薪ならではの危うさ。
青木はそれに怯むことなく、デスクの上に置かれた薪の手を、自らの大きな掌でそっと包み込む。
「っ……」
驚いたように震えた薪の指先に、青木は自らの体温を分け与えるように、ゆっくりと力を込めた。