春が、きた

 電話を切ってから約三十分後。
 滅多に鳴らないインターホンの音に、ダイニングテーブルで読書していた薪は訝しげに顔を上げた。
 そしてスマホに手を伸ばして応答ボタンにタッチした瞬間、映し出されるエントランスのカメラが捉えた大男の姿に見惚れ…いや、目を疑って固まる。


「どうしてここへ来た」

「え?どうして、って……」

 薪の仏頂面に慣れっこの部下こいびとは、明るい顔で買い物袋を両手に提げてキッチンへと直行する。部屋にすんなり上げてもらえた喜びだけでも、気分は上々なのだ。

「僕は出汁がないと言っただけだ」

「えっと、だから作りにきたんですが」

「……話をしてから三十分しか経ってない。こんなに早く……何故だ!?」

 薪がわなわなと震えているのを声色で察知した青木は、買ってきたものを急いで冷蔵庫に仕舞ってキッチンから出てくる。 

「昨夜は倉辻の家に泊まったんです。それで今朝……お電話頂いた時点でもう、あなたのところへ行こうとスーパーで買い出しを始めていたところだったので……」

 来月、舞が小学一年生になるのだ。
 ランドセルや学習机などの準備も整った春休みに、入学祝も兼ねておバアちゃんも一緒に倉辻家で過ごすことになった。
 実は金曜の昨日、青木も昼イチの会議の後で倉辻家に駆けつけて、皆でお祝いの晩餐の食卓を囲み、そのまま泊めてもらったのだ。

「にしても、何故僕が家にいると決めつけて行動する?しかもお前の所在については一言の連絡もなく……」

「ああ、すみません。この土日あなたが出社されないのは岡部さん経由で存じ上げてましたので」

 薪の帰任当初、科警研所長の席を第三管区に作ることになった際、岡部は自ら所長のSS秘以外のスケジュール管理を半ば強引に買って出た。そして全室長向けにそれを共有する許可を薪に求めたのだ。レベル5データ強奪の時のような思いを部下たちに二度とさせないためであることを察した薪は、それを甘んじて受け入れた。国家レベルの緊急時にまで効力が持続する保証はないが、御守りくらいにはなるだろう、と。

「僕はお前の上京を知らなかったんだぞ、上司なのに」

「すみません、一応業務外ですから。でも恋人としてお伝えするべきでした。こうして会いに来るつもりだったことも……」

「フン、どうせ僕に仕事以外の予定なんてあるはずないと、高を括っているんだろ」

 苦笑いで黙る青木を、薪は腕組みして睨む。
 確かに仕事人間の薪が休日遊びに出かける想定はしてなかった。が、それを面と向かって肯定する勇気までは、さすがにない。


「それはさておき、舞たちは週明けまで滞在するので、俺も日曜の夕食までここにいられます。一緒にゆっくりしましょうね」

 平静を装って語る大男の後ろから、尻尾がブンブンと空を切る音が聞こえるようだ。

「フン、勝手に決めるな」

 愛情に溢れ純真に慕ってくる青木の目から、薪は必死で顔を背ける。結んだ口の端が緩むのを見られたくない一心で、不自然なほど身体を捩って。

「……すみませんでした」

「…………」

 薪がそっぽを向いたまま読書を再開し、ぎこちなく温かい沈黙が流れていく。
 この人の、斜め後ろのアングルだってまたお綺麗なのだ。長いまつ毛が際立つし、紅く染まる耳殻が何ともお可愛らしくて……と、青木はときめく胸を押さえて、浮き立つ足でキッチンへと戻る。


 昼食の仕込みでも始めたのだろうか。
 ……しかし。“ゆっくりする”って何することを指すんだ?
 ダイニングテーブルの上に開かれたままさっきからページがなかなか進まない本から視線を外した薪は、キッチンの青木に声を掛ける。
 
「お前、休日何処か行きたいところは?」

「そうですね、時間があれば、食材を買いにでも……」

「今してきたのに、また買い物か」

「ええ、作りたいものがどんどん浮かんでしまって……」

 そう答えたのは、前回冷凍して残しておいた作り置きが全部きれいに消えているのを見たからだ。
 青木は湧き上がる幸せに身震いし、一人へらへらと頬を緩める。
 

「朝食はお済みですか」

「……ん」

 コーヒーカップを片付ける青木の袖を捲った腕に、小さく丸められたシリアルバーの包装紙がコツンと命中する。その“弾丸”を放ったのは本の影に隠れた少年みたいな指先であろうことは、ゆうに察しがついた。

「あ、ちゃんと穀物も摂られたんですね」

「……お前が煩いからだろ」

 休日の薪は、まるで子どもみたいに愛おしい。
 薪の全身を舞みたいにぎゅーっと抱きすくめて褒めてあげたい衝動を抑える苦しさ紛れに、青木はズボンのポケットからスマホを取り出した。

「あの……音楽、流していいですか」

「勝手にしろ」

 約ひと月ぶりにペアリングしたBluetoothスピーカーから、小さな音で青木のプレイリストが流れはじめる。

 好きな空間に流れる好きな音楽。

 その中心では、ひときわ大好きな人が、澄ました顔でときめきをひた隠しながら、頭に入ってこない本の字面を夢中で追っている……最高の休日だ。

「あと、花でも買ってくればよかったですかね」

「……それは嫌だ」

「え?」

「だって、萎むだろ。お前のいなくなる頃に丁度」
 
 ハァ……もう、薪さん。マジで反則。

 拗ねたようにぽつりと答える恋人のあまりの愛しさに堪えきれなくなった青木は、キッチンに駆け込んで自分の二の腕を強く抱きしめ、深くため息をつくのだった。
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