春が、きた

 中煎りのグアテマラ・アンティグアをハンドドリップしてカップに注ぐ休日の朝。
 さっそく口に含めば、華やかな香りが鼻に抜け、繊細で複雑なコクが舌を包む。その心地よさに目を閉じると……
 “薪さん。朝一番に胃の中カラッポでコーヒー飲んじゃ駄目ですからね!”
と、小言を言う煩い部下こいびとの顔がいきなり脳裏にポンっと浮かんだ。

 目を開けた薪は、面倒臭そうに棚からミニサイズのシリアルバーを、一つ取り出して口に放り込む。

 中煎り、中挽き、98℃で抽出したグアテマラは、数ある品種のなかでも特にα波を多く出現させる……筈なのだが。
 なぜか苛ついて眉間に皺を寄せた薪は、ダイニングテーブルの端にあった携帯をとうとう手に取って、発信ボタンをタップした。
 

『え、薪さん?おはようございます』

「…………」

『……どうしました?』

「ダシガナイ」

『……えっ?ダラシナイ?』

 違う、誰がだらしないんだ!出汁がきれた、と言ってるんだ。お前の万能だし、早く持って来い!
 喉元まで出かけていたその言葉を、薪はふと、呑み込む。
 僕は馬鹿なのか?そんなことで福岡からアイツを呼びだすなんて―――

 前にアイツがここに来たのは三月の初めだった。
 出張のついでに、気の早いホワイトデーのプレゼントを持って家に来た。
 大男が照れながら恭しく差し出した、ラデュレの金平糖。
 薪はそれをいたく気に入って、半月ほどかけて、毎日のように数粒ずつそれを味わった。
 
 今は三月の下旬。
つまり、そういうものがいろいろ切れてきた頃だ。
 前に来たとき青木が残していったものが。
 小分けして冷凍にいくつもあった出汁もそうだ。
 朝でも晚でも、気が向けば温めてマグで飲む。休日は具を入れ好きに味付けて、いい塩梅の食事にもなったのに。
 
 どうせいつかはなくなるものだから、さっさと無くしてしまえばいい。
 そう思って勿体ぶることもしなかったのだが、休日の朝、いつもの癖で空になった冷凍庫をつい開けてしまった時、妙な恋しさに囚われたのだ。
 
 駄目だダメだ。これは立派な依存症状じゃないか。

『もういい。何でもない』

「えっ、あの、じゃあ俺……」

『もういいと言ってるだろッ!』

 突然かかってきて、乱暴に切られた電話を片手に、青木はその場に呆然と立ち尽くす。

 ああ、もしかして“万能だし”が欲しいのかな?

 開店したばかりの朝の成城◯井で、買い物カゴを手にして佇んでいた青木の目が、みるみる輝きだす。

 それは丁度いい。さすが薪さん、見計らったようなタイミングに、ナイスな注文じゃないか。
 朝一番に冷凍庫を開けてがっくり項垂れる可愛い上司こいびとの姿を思い浮かべ、青木は頬を緩めながら乾物コーナーへと足を向けた。
1/4ページ
スキ