五年後からのトラベラー
ニューヨーク、ハドソン川を見下ろすM.D.I.Pのメイン・ラボは、深夜になっても青白いLEDが煌々と光を放っている。
今まさにトライアルを始めようとしているのは、次世代MRI捜査の極致、Q-S.T.E.P.(量子時空もつれプロトコル)だ。
それは死者の脳から「記憶」を読み取る段階を超え、特定の過去の座標へと捜査員が「意識」を投射し、あたかもそこに実在するように捜査を行うという、神の領域への不遜な挑戦だった。
「何?被験体 の選定が難航しているだと?」
プロジェクトリーダーのハリスが、コーヒーカップを片手に眉間に皺を寄せた。
視線の先には、強化ガラス越しに鎮座する巨大なリング状の装置がある。
候補に名指しされた若手研究員のシュミットは、真っ青な顔でモニターを見つめたまま動けないでいた。
過去への意識投射は「予測誤差」がスイッチとなり、ワームホールを通って時空間を移動する。
現在の帰還も同じ要領だ。
帰還シーケンスに失敗すれば、意識は量子情報の塵となって霧散する……文字通りの「精神的死」を意味しているからだ。
「シュミット、君が適任だと理論班は言っている。元々私生活に執着がない上に、今、失恋したばかりで自暴自棄だと聞いたが?」
ハリスが冗談めかして緊張を和らげようとした時、背後から静かな、けれど氷のように鋭い声が響いた。
「……それだけの理由なら、僕が代わろう」
振り返ると、そこには日本から出向中の警視正、薪剛が立っていた。
白衣を纏った身体は、嵐の後の凪のように静かで、一切の無駄を削ぎ落としたシルエットは超越的な美しさを湛えている。
ラボの人工光を浴びたその肌は、陶器のように滑らかで、あまりに欠落のないその佇まいは、まるでこの世の喧騒から切り離された一枚の絵画のように見えた。
「いいや、マキはダメだ。君は全てのプロジェクトの核心だし、万が一のことがあれば、日本の警察当局との外交問題にも発展しかねない」
「それが僕がトラベラーになれない理由か。ではシュミットならいい理由は?」
「彼は今失うものがないじゃないか。むしろ生まれ変わるくらいの覚悟で挑めるから、成功を掴む確率が一番高い」
「失うものがない、というなら……」
薪の唇が、わずかに皮肉な弧を描いた。
「父も母も、兄弟もいない。フラれたわけではないが、葬り去るべき想いがあるのは、僕も、彼と同じだが……」
「ええっ、ちょっと待ってくれ、マキ」
震える声でシュミットが割り込んだ。
「……俺は、まだ彼女のことを諦めちゃいないんだ。いつか、やり直せるって……」
「そうか。それなら尚更、君がこんな危険に身を晒すわけにはいかないな」
薪は淡々と告げて、自ら装置のコントロールパネルへ歩み寄った。
――諦めきれない想い。
皮肉なことに、薪にもそれはあった。
自分を闇の底から救い出し、無償の愛を注ぎ続けてくれる部下、青木一行のことだ。彼を愛し、彼と共に生きたいと願う一方で、あまりに長く闇の中にいた魂は、まだ幸福という名の眩しい光の中に身を浸しきる術を知らない。
今の薪にとって、自らを危険な任務に投じることは、かつてのように罰ではない。愛する者とともに歩む未来をより確かなものにするための、彼なりの「祈り」に似た賭けでもあったのだ。
(……もし、僕がいなくなっても、アイツなら……)
青木なら、きっと泣きながらも、舞と共に前を向いて生きていけるだろう。
僕を諦めれば、誰かお似合いの女性との幸せな結婚のチャンスだって巡ってくるかもしれない。
死に対する抵抗感の薄さが、薪の決断を加速させてもいた。
「マキ! 今いきなりはマズい。時空間移動のスイッチになる 『擬似予測誤差パルス』の効き目には個人差がある。君自身の脳で一度チェックしてからでないと……」
「往路で試せばいいだろう。パルスが効かなければ時空間を飛べずに終わるだけなんだから」
薪はためらいなく、装置の中に入り意識投射用のヘッドギアを装着した。
無機質な暗闇の中に、Q-S.T.E.P.がレコメンドするターゲットの座標が、ホログラムで青白く浮かび上がるのを見て、薪はハッと息を呑む。
【2059年5月x日・東京大学】
(なぜ、僕はここを?)
自問する間もなく、システムが重い駆動音を上げる。
目的地は、法医学第九研究室副室長だった親友・鈴木克洋が、ただ一度だけ法学部の教壇に立った特別講座の日付だった。
まだ、絶望の分岐点に至る前の、あの頃の。
『Q-S.T.E.P.始動。ワームホール固定……カウントダウン、スリー、ツー――』
ハリスが、祈るような面持ちで「擬似予測誤差パルス」のトリガーに指をかけた。
その瞬間。
ラボの防音ドアを弾くようにして、女性職員の声が飛び込んでくる。
「薪警視正! 日本からエアメールよ、差出人は――IKKO AOKI!」
そのワードが届いた瞬間、薪の脳内で何かが弾けた。
IKKO AOKI――青木一行。
システムが用意した無機質な電気信号などではない。その名前が持つ、鼓動を早める圧倒的な「熱」が、計算され尽くしたはずの脳内予測を鮮やかに裏切ったのだ。
これ以上ない、最大級の「予測誤差」――心地よい渇望にも似た「誤差 」が、ワームホールの深淵へと薪を蹴り出した。
(……青木……!)
激しい磁気嵐と光の奔流。
薪剛の意識はまたたく間にターゲットの座標【2059年5月x日・東京大学】へと、一気に射出されたのだった。
今まさにトライアルを始めようとしているのは、次世代MRI捜査の極致、Q-S.T.E.P.(量子時空もつれプロトコル)だ。
それは死者の脳から「記憶」を読み取る段階を超え、特定の過去の座標へと捜査員が「意識」を投射し、あたかもそこに実在するように捜査を行うという、神の領域への不遜な挑戦だった。
「何?
プロジェクトリーダーのハリスが、コーヒーカップを片手に眉間に皺を寄せた。
視線の先には、強化ガラス越しに鎮座する巨大なリング状の装置がある。
候補に名指しされた若手研究員のシュミットは、真っ青な顔でモニターを見つめたまま動けないでいた。
過去への意識投射は「予測誤差」がスイッチとなり、ワームホールを通って時空間を移動する。
現在の帰還も同じ要領だ。
帰還シーケンスに失敗すれば、意識は量子情報の塵となって霧散する……文字通りの「精神的死」を意味しているからだ。
「シュミット、君が適任だと理論班は言っている。元々私生活に執着がない上に、今、失恋したばかりで自暴自棄だと聞いたが?」
ハリスが冗談めかして緊張を和らげようとした時、背後から静かな、けれど氷のように鋭い声が響いた。
「……それだけの理由なら、僕が代わろう」
振り返ると、そこには日本から出向中の警視正、薪剛が立っていた。
白衣を纏った身体は、嵐の後の凪のように静かで、一切の無駄を削ぎ落としたシルエットは超越的な美しさを湛えている。
ラボの人工光を浴びたその肌は、陶器のように滑らかで、あまりに欠落のないその佇まいは、まるでこの世の喧騒から切り離された一枚の絵画のように見えた。
「いいや、マキはダメだ。君は全てのプロジェクトの核心だし、万が一のことがあれば、日本の警察当局との外交問題にも発展しかねない」
「それが僕がトラベラーになれない理由か。ではシュミットならいい理由は?」
「彼は今失うものがないじゃないか。むしろ生まれ変わるくらいの覚悟で挑めるから、成功を掴む確率が一番高い」
「失うものがない、というなら……」
薪の唇が、わずかに皮肉な弧を描いた。
「父も母も、兄弟もいない。フラれたわけではないが、葬り去るべき想いがあるのは、僕も、彼と同じだが……」
「ええっ、ちょっと待ってくれ、マキ」
震える声でシュミットが割り込んだ。
「……俺は、まだ彼女のことを諦めちゃいないんだ。いつか、やり直せるって……」
「そうか。それなら尚更、君がこんな危険に身を晒すわけにはいかないな」
薪は淡々と告げて、自ら装置のコントロールパネルへ歩み寄った。
――諦めきれない想い。
皮肉なことに、薪にもそれはあった。
自分を闇の底から救い出し、無償の愛を注ぎ続けてくれる部下、青木一行のことだ。彼を愛し、彼と共に生きたいと願う一方で、あまりに長く闇の中にいた魂は、まだ幸福という名の眩しい光の中に身を浸しきる術を知らない。
今の薪にとって、自らを危険な任務に投じることは、かつてのように罰ではない。愛する者とともに歩む未来をより確かなものにするための、彼なりの「祈り」に似た賭けでもあったのだ。
(……もし、僕がいなくなっても、アイツなら……)
青木なら、きっと泣きながらも、舞と共に前を向いて生きていけるだろう。
僕を諦めれば、誰かお似合いの女性との幸せな結婚のチャンスだって巡ってくるかもしれない。
死に対する抵抗感の薄さが、薪の決断を加速させてもいた。
「マキ! 今いきなりはマズい。時空間移動のスイッチになる 『擬似予測誤差パルス』の効き目には個人差がある。君自身の脳で一度チェックしてからでないと……」
「往路で試せばいいだろう。パルスが効かなければ時空間を飛べずに終わるだけなんだから」
薪はためらいなく、装置の中に入り意識投射用のヘッドギアを装着した。
無機質な暗闇の中に、Q-S.T.E.P.がレコメンドするターゲットの座標が、ホログラムで青白く浮かび上がるのを見て、薪はハッと息を呑む。
【2059年5月x日・東京大学】
(なぜ、僕はここを?)
自問する間もなく、システムが重い駆動音を上げる。
目的地は、法医学第九研究室副室長だった親友・鈴木克洋が、ただ一度だけ法学部の教壇に立った特別講座の日付だった。
まだ、絶望の分岐点に至る前の、あの頃の。
『Q-S.T.E.P.始動。ワームホール固定……カウントダウン、スリー、ツー――』
ハリスが、祈るような面持ちで「擬似予測誤差パルス」のトリガーに指をかけた。
その瞬間。
ラボの防音ドアを弾くようにして、女性職員の声が飛び込んでくる。
「薪警視正! 日本からエアメールよ、差出人は――IKKO AOKI!」
そのワードが届いた瞬間、薪の脳内で何かが弾けた。
IKKO AOKI――青木一行。
システムが用意した無機質な電気信号などではない。その名前が持つ、鼓動を早める圧倒的な「熱」が、計算され尽くしたはずの脳内予測を鮮やかに裏切ったのだ。
これ以上ない、最大級の「予測誤差」――心地よい渇望にも似た「
(……青木……!)
激しい磁気嵐と光の奔流。
薪剛の意識はまたたく間にターゲットの座標【2059年5月x日・東京大学】へと、一気に射出されたのだった。
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