五年後からのトラベラー
「マキ! 奇跡だ!生還おめでとう!」
ハリスたちが駆け寄ってきて、モニターに表示された膨大な波形を指して興奮気味に叫んでいる。
「しかしあの数値は何なんだ!? 物理法則では計測不能なレベルの自己生成パルス……君は一体、過去 で何を見たんだ!」
「……さあな。ただの計算違いだろう。解析不能なノイズとでも記録しておけばいい」
薪は、まだ微かに痺れるような熱が残る唇を指先でそっと拭い、白々しく視線を逸らした。
無機質なラボの白い照明、点滅するインジケーター。知と合理が結集した科学が支配するこの場所で、その熱だけが、あまりにも鮮やかな異物としてそこにある。
最先端の量子コンピュータを以てしても解析できない、二人だけの「秘密」。
五年の時空を隔てた同じ母校の……あの初夏の、柔らかな陽だまりの中で交わした二人の、予測を裏切る甘い熱。
「マキ。お疲れのところ悪いが、検証も頼むよ。トラベラーが過去に干渉した際、歴史は書き換わるのか、それとも一部の修正なのか……。捜査の副作用ともなるデータを集めたい。トラベラーとして君が『接触した人物』の『現在の記憶』をできる限り確認してほしい」
プロジェクトの要請を無視する術はなく、薪はしぶしぶ携帯電話を手に取った。
フランスへ再出向の話も来ている今、自分の日本への帰任はまだしばらく先だろう。そんな中で声をかければ、あの男がどんな反応をするのか。いや、それより自分自身の感情は――
互いの想いが手に取るようにわ伝わってしまいそうな状態が気まずくて、距離を置いていた元部下の男。
できれば接触したくないと思いつつも、呼び出し音を待つ間、薪の胸は期待と高揚感に華やいでいた。
『……はい、青木です!』
繋がった瞬間に響いたのは、大型犬が尻尾を振る様子が目に浮かぶような、耳に馴染む弾んだ声だった。
「ああ……僕だ」
『ま、薪さん……ですよね!?お久しぶりです。あれ?アメリカは今、夜中ですよね。何かあったんですか?』
「……折り入って聞きたいことがあってな。五年前、お前が学生だった時の……鈴木捜査員の特別講義を覚えているか?」
「……へっ??」
薪の問いに、電話の向こうで一瞬の沈黙が流れた。
『大学の時の講義、ですか? もちろんです。憧れの第九の、鈴木さんの講義ですから。ギリギリに滑り込んだんですが、幸運なことに最前列が一席空いてて、そこに座って必死にメモを取って……』
「……」
『……た、はずなんですが。……あれ? おかしいな。でも俺、あの日、中庭のベンチで誰かとすごく大事な話をしていたような気もしてきた……』
青木の声が、急に自信なさげに小さくなる。
(いや待てよ。俺ってあの日、初めて会った人と中庭を散歩しながら質問攻めして、いきなり抱きしめて、自分からキスをした!? いや、夢をみたのか!? いや違う講義中寝るわけないし! 現実だったとしても、そんな不埒なことをして講義をサボったなんて、薪さんに言えるわけがない……! てか、あの時会ったのは、俺の憧れの……薪さんそのものだったような……って、あれ!?)
『あ、そういや講義でメモしたデータがまだタブレットに残ってるはずで………って、無いっっ!!』
電話の向こうで、顔を真っ赤にして挙動不審になっている青木の気配が、手に取るように伝わってくる。
「……なんだ、結局サボったのか。第九志望者だったくせに間抜けだな」
薪は、わざと意地悪く、けれど慈しむような声で笑った。
『ち、違いますよ! サボったんじゃなくて、その……大切な人と会って話して……すごく、幸せな時間だった記憶だけはあるんです! ……夢かも、知れないけどっ! すみません、一人で変なこと言って……』
「……そうか。なら、いい」
薪は、ラボの窓から見えるNYの夜景に目をやった。
地上の星のようにまたたく光はきらびやかでいて、無機質で冷たい。けれど、受話器から伝わる青木の慌てた声が、薪の胸の奥をじわりと溶かしていく。
過去は、曖昧だが、確かに書き換えられているようだ。
青木が後生大事にしていた『特別講義』のページを消したのは申し訳なかったが。代わりに、互いの魂には「時空間を超えた約束」が刻まれたのだとしたら。
――幸せな顔をしてください。
五年前……いや、薪にとってはついさっき、あの指先が触れた場所に残る確かな熱。その記憶が、異国の冷たい夜の中で、優しく心を抱きしめてくる。
「青木」
『はい』
「僕が帰任したら……」
『はい?』
「……いや。なんでもない。過去の講義は仕方ないが、今の仕事はサボるなよ」
『サボるわけないですよ……って、あっ、薪さん、切らないでください!もう少しだけ声を……っ』
慌てる青木の声が、通信のノイズを突き抜けて真っ直ぐに届くのを、敢えて静かに断ち切った。
それでも温かな絆がまだ繋がっているのを感じる。
あと一年、あるいは数年。この「空白」を埋めるために必要な時間は、少なくとも永遠ではない。
書き換えられた過去と、これから上書きしていく未来。
薪は、自身の予測を裏切り続けるこの愛おしい「誤差」を、もう少しだけ――いや、もっと、ずっと観測していたいという気持ちを、そっと受け入れることにした。
ハリスたちが駆け寄ってきて、モニターに表示された膨大な波形を指して興奮気味に叫んでいる。
「しかしあの数値は何なんだ!? 物理法則では計測不能なレベルの自己生成パルス……君は一体、
「……さあな。ただの計算違いだろう。解析不能なノイズとでも記録しておけばいい」
薪は、まだ微かに痺れるような熱が残る唇を指先でそっと拭い、白々しく視線を逸らした。
無機質なラボの白い照明、点滅するインジケーター。知と合理が結集した科学が支配するこの場所で、その熱だけが、あまりにも鮮やかな異物としてそこにある。
最先端の量子コンピュータを以てしても解析できない、二人だけの「秘密」。
五年の時空を隔てた同じ母校の……あの初夏の、柔らかな陽だまりの中で交わした二人の、予測を裏切る甘い熱。
「マキ。お疲れのところ悪いが、検証も頼むよ。トラベラーが過去に干渉した際、歴史は書き換わるのか、それとも一部の修正なのか……。捜査の副作用ともなるデータを集めたい。トラベラーとして君が『接触した人物』の『現在の記憶』をできる限り確認してほしい」
プロジェクトの要請を無視する術はなく、薪はしぶしぶ携帯電話を手に取った。
フランスへ再出向の話も来ている今、自分の日本への帰任はまだしばらく先だろう。そんな中で声をかければ、あの男がどんな反応をするのか。いや、それより自分自身の感情は――
互いの想いが手に取るようにわ伝わってしまいそうな状態が気まずくて、距離を置いていた元部下の男。
できれば接触したくないと思いつつも、呼び出し音を待つ間、薪の胸は期待と高揚感に華やいでいた。
『……はい、青木です!』
繋がった瞬間に響いたのは、大型犬が尻尾を振る様子が目に浮かぶような、耳に馴染む弾んだ声だった。
「ああ……僕だ」
『ま、薪さん……ですよね!?お久しぶりです。あれ?アメリカは今、夜中ですよね。何かあったんですか?』
「……折り入って聞きたいことがあってな。五年前、お前が学生だった時の……鈴木捜査員の特別講義を覚えているか?」
「……へっ??」
薪の問いに、電話の向こうで一瞬の沈黙が流れた。
『大学の時の講義、ですか? もちろんです。憧れの第九の、鈴木さんの講義ですから。ギリギリに滑り込んだんですが、幸運なことに最前列が一席空いてて、そこに座って必死にメモを取って……』
「……」
『……た、はずなんですが。……あれ? おかしいな。でも俺、あの日、中庭のベンチで誰かとすごく大事な話をしていたような気もしてきた……』
青木の声が、急に自信なさげに小さくなる。
(いや待てよ。俺ってあの日、初めて会った人と中庭を散歩しながら質問攻めして、いきなり抱きしめて、自分からキスをした!? いや、夢をみたのか!? いや違う講義中寝るわけないし! 現実だったとしても、そんな不埒なことをして講義をサボったなんて、薪さんに言えるわけがない……! てか、あの時会ったのは、俺の憧れの……薪さんそのものだったような……って、あれ!?)
『あ、そういや講義でメモしたデータがまだタブレットに残ってるはずで………って、無いっっ!!』
電話の向こうで、顔を真っ赤にして挙動不審になっている青木の気配が、手に取るように伝わってくる。
「……なんだ、結局サボったのか。第九志望者だったくせに間抜けだな」
薪は、わざと意地悪く、けれど慈しむような声で笑った。
『ち、違いますよ! サボったんじゃなくて、その……大切な人と会って話して……すごく、幸せな時間だった記憶だけはあるんです! ……夢かも、知れないけどっ! すみません、一人で変なこと言って……』
「……そうか。なら、いい」
薪は、ラボの窓から見えるNYの夜景に目をやった。
地上の星のようにまたたく光はきらびやかでいて、無機質で冷たい。けれど、受話器から伝わる青木の慌てた声が、薪の胸の奥をじわりと溶かしていく。
過去は、曖昧だが、確かに書き換えられているようだ。
青木が後生大事にしていた『特別講義』のページを消したのは申し訳なかったが。代わりに、互いの魂には「時空間を超えた約束」が刻まれたのだとしたら。
――幸せな顔をしてください。
五年前……いや、薪にとってはついさっき、あの指先が触れた場所に残る確かな熱。その記憶が、異国の冷たい夜の中で、優しく心を抱きしめてくる。
「青木」
『はい』
「僕が帰任したら……」
『はい?』
「……いや。なんでもない。過去の講義は仕方ないが、今の仕事はサボるなよ」
『サボるわけないですよ……って、あっ、薪さん、切らないでください!もう少しだけ声を……っ』
慌てる青木の声が、通信のノイズを突き抜けて真っ直ぐに届くのを、敢えて静かに断ち切った。
それでも温かな絆がまだ繋がっているのを感じる。
あと一年、あるいは数年。この「空白」を埋めるために必要な時間は、少なくとも永遠ではない。
書き換えられた過去と、これから上書きしていく未来。
薪は、自身の予測を裏切り続けるこの愛おしい「誤差」を、もう少しだけ――いや、もっと、ずっと観測していたいという気持ちを、そっと受け入れることにした。